当町は、千葉庄椎名郷下郷に属し、谷津村・駒崎村の二村を明治九年(一八七六)に合併して、「椎名崎村」と称した。郷名の「椎名」に駒崎の「崎」を組合わせて椎名崎としたという説と、郷名の椎名と、地形が突出していることから、椎名の崎、椎名崎と名付けたとする説もある。
『千葉郡誌』(1)によると、当町谷津に鎮座する椎名神社は、伊邪那岐命ほか三柱の神を祭神として、天平元年(七二九)に勧請されたとある。このことは、法隆寺の夢殿建立より十年前に当り、また和銅二年(七〇九)に千葉寺町に創建されたという、千葉寺観音堂より二十年後にあたる。また、同境内の熊野神社は、天平十六年(七四四)に勧請されたとある。
谷津にある常福寺は、文明四年(一四七二)二月二十四日、月性上人の創建と伝えられる日蓮宗の寺で、寺宝に雨降獅子(あめふりかっこ)および梵鐘があるという。同谷津の聖宝寺は、創建は不詳だが、もとは「聖法寺」と称し、明治四十四年(一九一一)刈田子町の宝蔵寺と合併して、寺号を「聖宝寺」と改めた。このように市内では古い部落である。
『千葉大系図』(2)によると、「千葉常兼の六子胤光、椎名六郎と称して下総国千葉庄椎名郷に居城し、此城堅固なるため大椎城の子城也」とあり、また「子息胤隆、椎名六郎太郎と称して、治承年中源頼朝に仕へて功あり」とある。城は当町台地にあったと伝承され、城址という土地も残っている。
町名の推移を資料からみると、
○明暦二丙申年(一六五六)二月 田畑屋敷名寄帳・刈田子町高梨家蔵 谷津村
○明暦二丙申年(一六五六)二月 谷津村豊前村水帳・高梨家蔵 〃
○延宝七年(一六七九)九月 豊前方未の新田検地帳・高梨家蔵 豊前方
○宝永三戍年(一七〇六)二月 豊前方荒間開発検地帳・高梨家蔵 谷津村豊前方
○宝永六己巳年(一七〇九)十一月 下総国千葉郡下郷谷津村之内豊前方検地帳・高梨家蔵 豊前方
○享保八癸卯年(一七二三)三月 椎名下郷駒崎村田畑一人別帳・高梨家蔵 駒崎村、谷津村、豊前方
○元文四己未年(一七三九)五月 椎名下郷豊前方新畑検地帳・高梨家蔵 豊前方
○元文四己未年(一七三九) 下総国千葉郡下郷泉台新畑水帳・高梨家蔵 下郷駒崎村
○延享四丁卯年(一七四五)正月 椎名下郷豊前方泉台新田一人別帳・高梨家蔵 豊前方
○延享四丁卯年(一七四五)二月 椎名下郷刈田子村田畑一人別帳・高梨家蔵 谷津村
○宝暦十一年(一七六一)五月 下総国各村級分書上・『改訂房総叢書』所収 谷津村、駒崎村
○安永三午年(一七七四)十月 小金一件諸入用割合控・高梨家蔵 駒崎村、谷津村
○安永四己未年(一七七五)三月 宗門御法度書・高梨家蔵 谷津村
○寛政七卯年(一七九五)正月 日記(小金原御鹿狩勢子人足割の事)
○文化十四丑年(一八一七)五月 取極申規定一札之事(浪人無宿者取締の事)・高梨家蔵 駒崎村、谷津村
○文政三辰年(一八二〇)十一月 辰御年貢皆済目録・高梨家蔵 谷津村
○文政五午年(一八二二)十二月 御書付(御召捕吟味の事)・高梨家蔵 谷津村
○文政六未年(一八二三)八月 議定証之事(助郷の事)・高梨家蔵 谷津村、駒崎村
○天保八酉年(一八三七)三月 御請書(物価値上り救済方の事)・高梨家蔵 〃 〃
○天保九戍年(一八三八)四月 御領分田畑高反歩取調控帳・高梨家蔵 谷津村、駒崎村
○天保十四卯年(一八四三)十月 人馬助合一件(訴訟の事)・高梨家蔵 下郷
○嘉永元申年(一八四八)九月 覚(村高取調の事)・高梨家蔵 谷津村、駒崎村
○安政三辰年(一八五六)八月 乍恐以書付御届奉申上候(大風被害届)・高梨家蔵 谷津村
○安政六己未年(一八五九)九月 御年貢早納一件済口証文議定・高梨家蔵 下郷
○文久二壬戍年(一八六二)十一月 当戍御年貢可納割付之事・高梨家蔵 豊前方、谷津村、駒崎村
○明治三午年(一八七〇)正月 乍恐以書付奉願上候(不作救済方歎願の事)・高梨家蔵 谷津村、駒崎村
○明治四辛未年(一八七一)三月 下総国千葉郡椎名下郷三ヶ村五人組御改帳・高梨家蔵 〃 〃
○明治四辛未年(一八七一)三月 下総国千葉郡椎名下郷三ヶ村宗門御改帳・高梨家蔵 谷津村
○明治五壬申年(一八七二)七月二十五日 差出申一札之事(質鑑札之事)・高梨家蔵 谷津村、駒崎村
以上の諸書、いずれも「谷津村」、「駒崎村」、「豊前方」と村名に移動は認められず、明治九年(一八七六)に合併して、「椎名崎村」と改められた。
- 註1 『千葉郡誌』 千葉県千葉郡教育会編、大正十五年。
- 2 『千葉大系図』 伝千葉重胤著、寛永年間、『改訂房総叢書』第五輯所収、昭和三十四年。