有吉町(ありよしちょう)

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 『房総文化史年表』(1)によると、「天文二十一年(一五五二)七月、里見義堯、下総の生実領なる有吉城を攻む」とある。

 そのほかの資料を挙げてみると、

 ○宝暦十一年(一七六一)五月    下総国各村級分書上(『改訂房総叢書』所収)  有吉村

 ○明和五子年(一七六八)十月八日  御触書写                    〃

 ○安永三午年(一七七四)十月    小金一件諸入用割合控・刈田子町高梨家蔵     〃

 ○天明三年(一七八三)三月     御鷹御用組合議定証文・高梨家蔵         〃

 ○寛政七卯年(一七九五)正月    乍恐以書奉願上候(小金原鹿狩人足の事)・高梨家蔵  〃

 ○寛政七卯年(一七九五)正月    日記(小金原御鹿狩勢子人足割の事)・高梨家蔵  〃

 ○文化八未年(一八一一)六月    北生実村・南生実村一件済口証文睦之事之議定・浜野町宍倉家蔵  〃

 ○文政三年(一八二〇)四月     差上申一札之事(泉谷出入の事)・高梨家蔵    〃

 ○文政六年(一八二三)八月     議定証文(助郷の事)              〃

 ○天保九年(一八三八)四月     御領分田畑高反歩取調控帳・高梨家蔵       〃

 ○天保十四年(一八四三)十月    人馬一件書上帳・星久喜町深山家蔵       有吉村

 ○嘉永元年(一八四八)九月     覚(村高取調の事)               〃

 ○嘉永五年(一八五二)十一月    乍恐以書付奉願上候(人馬助郷差村の事)・高梨家蔵  〃

 ○文久三亥年(一八六三)八月    乍恐以書付奉願上候(人馬助郷差村の事)・高梨家蔵  〃

 ○明治四年(一八七一)三月     椎名下郷三ヶ村高書上帳・高梨家蔵        〃

 以上の諸書に、「有吉村」と記入されており、往古より分村および村名の変更は認められない。ただ、千葉市に合併後、「鎌取」を創設の際、一部が分割された。