当町の附近に、応神天皇の御時、多くの工芸人が帰化して来たが、そのうちで、麻績連(おみのむらじ)とその部民とが、この地に住みついた模様である。その子孫と称する八剣神社の旧神官・吉野家に伝わる旧記によると、吉野家は、古くは麻績姓を名乗って、献布の事を司どり、のちには郡司大領となって、東(あずま)の防人(さきもり)を大宰府に送る職であったと誌されている。
この麻績(おみ)が「おゆみ」と転化して、「大弓」となり、応永二年(一三九五)頃から「小弓」、「御小弓郷」と誌されるようになった。古くは、現在の生実町から分村したもので、分村の時期については、資料は更に見当らないのである。
次に、古文書に現われた町名と、その推移を見ると、
○明暦三年(一六五七)二月 八剣神社棟札・八剣神社蔵 南小弓村
○正徳五年(一七一五) 下総国各村級分書上・『改訂房総叢書』所収 〃
○宝暦十一年(一七六一)五月 下総国各村級分書上・『改訂房総叢書』所収 南小弓村
○宝暦十四年(一七六四)六月 申御改馬毛附下帳 〃
○明和五子年(一七六八)十月 御触書写 〃
○明和九年(一七七二)三月 下総国千葉郡南生実村辰御改五人組下帳 南生実村
○安永三年(一七七四)四月 下総国千葉郡南生実村午御改宗門下帳 〃
○安永三年(一七七四)十月 小金一件諸入用割合控・高梨家蔵 〃
○寛政七卯年(一七九五)正月 乍恐以書付奉願上候(小金原鹿狩人足の事)・高梨家蔵 南小弓村
○寛政七年(一七九五)正月 日記(小金原御鹿狩勢子人足割の事)・高梨家蔵 〃
○文化十四丁丑年(一八一七)二月 永代取極議定書(南生実村立直し取極の事) 南生実村
○文政三辰年(一八二〇)二月一日 永代取極村法議定請書(村立直し協定再確認の事) 〃
○文政三年(一八二〇)四月三日 差出申一札之事(泉谷出水の事) 〃
○文政六未年(一八二三)八月 議定証文(助郷の事) 〃
○天保六未年(一八三五)正月 乍恐以書付奉願上候(名主と村民の訴訟の事) 〃
○天保六未年(一八三五)四月 乍恐以書付奉願上候(村立直し救済歎願の事) 〃
○天保九戍年(一八三八)四月 御領分田畑高反歩取調控帳 〃
○天保十四卯年(一八四三)十月 人馬助合一件(訴訟の事) 〃
○嘉永元申年(一八四八)九月 覚(村高取調の事) 〃
○安政六己未年(一八五九)九月 御年貢早納一件済口議定 〃
○明治九年(一八七六)七月 坂尾村高帳 〃
以上の資料をみてゆくと、南小弓村、南大弓村、南生実村、再び南小弓村、南生実村と移り変って、今日に及んでいる。