村田町(むらたちょう)

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 当町は、千葉市の南西部にあって、市原市に接し、村田川に沿ってできた部落で、遠く大化改新の制度改革で、大化二年(六四六)に定められた口分田の遺跡が、町の耕地の中心となっている。

 この町が、上総国市原郡に所属していた時は、「群田(むらた)」と記載されていて、元和元年(一六一五)下総国千葉郡に編入せられると、群田を「邑田」、または「村田」と改められている。また、「白鳳年中、すでに門戸十四あり」と村誌はいっている。

 当町の泉福寺の伝記を見ると、「永正三年(一五〇六)一月、日泰上人、むらたに、泉福寺を創建す」とあって、口分田の多くの区画の田が、群田、邑田、村田と変化して来たとする考えと、また群田を「むれだ」、「むだ」と呼んだことがあって、九州地方では、湿地を「むだ」と呼び習わしているそうである。村田村も、昔は篠の生い茂った湿地だったという。「むだ」が「群田」と書かれ、「邑田」となり、「村田」と変化してきたものとも考えられる。

 そのほかの資料を挙げてみると、

 ○明和五子年(一七六八)十月  御触書写・浜野町宍倉家蔵          村田村

 ○安永三午年(一七七四)十月  小金一件諸入用割合控・刈田子町高梨家蔵    〃

 ○天明三卯年(一七八三)三月  御鷹御用組合議定証文            村田村

 ○寛政七卯年(一七九五)正月  乍恐以書付奉願上候(小金原鹿狩人足の事)・高梨家蔵  〃

 ○寛政七卯年(一七九五)   日記(小金原御鹿狩勢子人足割の事)・高梨家蔵  〃

 ○天保六未年(一八三五)二月  入置申一札之事                〃

 ○天保九戍年(一八三八)四月  御領分田畑高反歩取調控帳・高梨家蔵      〃

 ○天保十四卯年(一八四三)十月  人馬助合一件(訴訟の件)・星久喜町深山家蔵  〃

 ○嘉永元申年(一八四八)九月  覚(村高取調の事)              〃

 以上のように、町名の変更は認められない。