「人皇十二代景行天皇の御宇、日本武命の御東征の時、麻州(はのくに)石握(いしつか)の御影郷に御下向す」と古書にある。
「麻州」は総州、「石握」は八幡町の旧名である。この麻州の麻が「はま」に訛り、その後、「浜」の字が当てられたようである。
永正六年(一五〇九)の連歌師・柴屋軒宗長の文に、「原宮内少輔胤隆が館の前に、浜村の法華堂本行寺旅館なり」とあり、また、『房総志料』(1)には、「千葉郡浜村とあるは、浜野村のことなり」と誌されている。
さて、町名は、「往古は、浜或は浜村と称し、元禄十四年(一七〇一)浜野村と改まり、明治維新の時浜野駅となって、後浜野村に復す」と、明治二十一年(一八八八)九月二十八日の『千葉郡町村分合取調』(2)に出ている。
資料から町名の移り変りをみると、
○永正六年(一五〇九) 浜村
○元禄十四年(一七〇一) 浜野村
○宝暦十一年(一七六一)五月 下総国各村級分石高分領主別表・『改訂房総叢書』所収 〃
○明和五子年(一七六八)十月 御触書写・浜野町宍倉家蔵 浜野
○安永四乙未年(一七七五)三月 宗門御法度書・刈田子町高梨家蔵 浜野村
○寛政七卯年(一七九五)正月 乍恐以書付奉願上候(小金原鹿狩人足の事)・高梨家蔵 〃
○寛政七年(一七九五)正月 日記(小金原御鹿狩勢子人足割の事)・高梨家蔵 〃
○文政六未年(一八二三)八月 議定証文之事(助郷の事) 〃
○天保六未年(一八三五)四月 乍恐以書付奉願上候(村立直救済歎願の事)・宍倉家蔵 〃
○天保九戍年(一八三八)四月 御領分田畑高反歩取調控帳・高梨家蔵 〃
○天保十四卯年(一八四三)十月 人馬助合一件(訴訟の事)・星久喜町深山家蔵 〃
○弘化四未年(一八四七)七月 乍恐以書付奉願上候(人馬助郷差村の事) 〃
○嘉永元申年(一八四八)九月 覚(村高取調の事) 〃
○嘉永三戍年(一八五〇)六月 乍恐以書付奉願上候(人馬助郷差村の事) 〃
以上の資料から、古くは「浜村」で、元禄十四年から明治初年まで「浜野村」、それが前述したとおり、「浜野駅」になり、のち、「浜野村」となったことが了解できたと思う。
- 註1 『房総志料』 中村国香著、宝暦年間、『改訂房総叢書』第三輯所収、昭和三十四年。
- 2 『千葉郡町村分合取調』 千葉県立中央図書館編『千葉県地名変遷総覧』所収、昭和四十五年。