この町名の起源については、資料・伝承にとぼしく、ほとんど不明である。
いま資料から推移をたどってみる。
○明和五子年(一七六八)十月 御触書写 小花輪村
○寛政七卯年(一七九五)正月 乍恐以書付奉願上候(小金原鹿狩勢子人足割の事)・刈田子町高梨家蔵 〃
○寛政七卯年(一七九五)正月 日記(小金原御鹿狩勢子人足割の事)・高梨家蔵 〃
○文化八未年(一八一一)六月 南、北両生実村一件済口証文睦之議定・浜野町宍倉家蔵 〃
○文政六未年(一八二三)八月 議定証文之事(助郷の事) 〃
○天保九戍年(一八三八)四月 御領分田畑高反歩取調帳・高梨家蔵 〃
○天保十四卯年(一八四三)十月 人馬助合一件(訴訟の事)・星久喜町深山家蔵 〃
○安政五午年(一八五八)十一月 以書付御窺申上候(西福寺普請及留主居の事)・金親町金光院蔵 〃
以上いずれも「小花輪村」とあり、古くから移動はない。