中野町(なかのちょう)

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 当町は、旧白井村に属し、山家郷白井荘に含まれ、鎌田、千葉中、本郷の三部落で構成されている。

 明治二十二年(一八八九)四月に、改正された町名は、『千葉県町村分合取調書』(1)によると、「往古、白井の荘なりしため、荘名をもって白井村と名付けた」とある。昭和三十年(一九五五)三月三十一日、白井村と更科村が合併して「泉町」となり、昭和三十八年(一九六三)四月十日、千葉市に合併された。

 当町は、東金街道に沿った町である。この街道は、康正元年(一四五五)に、東常縁が、その部将・浜式部春利をして築造せしめたとある。歴史上の記事から考えて、軍事上・交通上に必要を痛感して、早くから開かれたものと考えられ、寛正三年(一四六二)に酒井定隆が中野城を築城して占居したことも、東金千葉間の軍事・交通上の重要地点であったからであろう。

 往古は、この町も千葉家の勢力範囲で、原氏がいたと思われる。その後、長享二年(一四八八)ころは、酒井家の領となり、一時、北条安房守の所領となったこともある。元禄十五年(一七〇二)、戸田能登守から分家した、戸田大学の知行所となり、宝暦十一年(一七六一)、旗本九家の相給地となった。その後、天保十五年(一八四四)、「御領地新山改帳」によれば、佐倉領として書上げられ、「土気庄中野村」とある。

 いま、町名の起源について、資料をみると、

 ○寛正三年(一四六二)     酒井定隆、当町に中野城を築造

 ○延徳元年(一四八九)六月十八日    「下総国中野村の中野城址に日泰上人、本城寺を創建す」と過去帳にある

 ○享保十八癸丑年(一七三三)九月    中野町八幡神社の鳥居銘文                中野惣氏子

 ○元文五申年(一七四〇)六月      小間子牧附村々国郡高地頭調・『八街町資料集』所収    千葉郡中野村

 ○延享元甲子年(一七四四)十一月七日  本城寺鰐口の銘文・本城寺蔵                〃

 ○寛政元己酉年(一七八九)十月     取替置申一札之事(小間子牧村々取極の事)・『八街町資料集』所収  中野村

 ○寛政六寅年(一七九四)八月      差上申一札之事(小間子牧秣刈に付いて)・『八街町資料集』所収  〃

 ○寛政七卯年(一七九五)正月      日記(小金原御鹿狩勢子人足割の事)・刈田子町高梨家蔵   〃

 ○文化十二亥年(一八一五)八月七日   御野馬捕御用一件・『八街町資料集』所収          〃

 ○文化十三子年(一八一六)八月     乍恐以書付奉願上候(小間子牧野馬捕牧士宿泊の事)・『八街町資料集』所収  〃

 ○天保九戌年(一八三八)        取扱内済証文之事(傷害事件の事)             〃

 ○天保十五年(一八四四)        御領分御林新田高改・川戸町鈴木家蔵           土気庄中野村

 ○嘉永三戌年(一八五〇)        野呂村差出村一件願書写・野呂町石井家蔵         中野村

 ○文久三亥年(一八六三)八月      野呂村差出村一件願書写・石井家蔵             〃


挿図48 本城寺蔵鰐口(延文六年銘)中野町

 以上のとおり、延徳元年以来、町名中野村の変更は認められない。