旧白井村の一村で、山家郷白井荘に属し、東金街道に沿った村で、問屋場があった宿場町であった。
『千葉郡誌』(1)には、「白井村は往古の事蹟詳ならず。足利時代に後土御門天皇の長享二年(一四八八)戌申の頃、酒井定隆の領地なりき。天正年代に至りて、千葉之庄の支配となる。元禄十一年(一六九八)頃には、千葉郡と称す。現今の和泉区は、上泉村(うわいずみむら)といい、当時は中田村・古泉村(現今更科村)の支配に属したり。当時の領主は不明なれども、その後、地頭北条安房守の所領となり、戸田大学の知行となる」とある。
戸田大学の知行所となったのは、元禄十五年(一七〇二)、戸田能登守家から分家してからである。宝暦十一年(一七六一)戸田土佐守の知行所となって、明治維新まで相続した。
当町の東光寺は、寛保二壬戌年(一七四二)に再建され、大永二年(一五二二)、日泰上人によって改宗した寺だという。改宗前の寺名、縁起は不明で、寺の裏山には、酒井家の土気城落城に関係する伝説もある。
次に町名の推移を述べてみると、
○寛永六年(一六二九)五月 訪栖大明神神社棟札・和泉町訪栖神社蔵 和泉村
○寛永十九年(一六四二)八月八日 相渡申一札之事(とりばみ野争論の事) 〃
○寛文十二年(一六七二)四月十二日 官途・和泉町酒井家蔵 〃
○享保九辰年(一七二四)五月二十日 一札之事(秣刈場境争論の事) 〃
○文政十二丑年(一八二九)八月 下総国千葉郡野呂村差出帳・野呂町石井家蔵 〃
○天保二辛卯年(一八三一)五月 諏訪大明神の棟札・和泉町諏訪神社蔵 〃
○天保七申年(一八三六)四月 為取替申一札之事(蛇喰野争論之事) 〃
○天保八酉年(一八三七) 乍恐以書付奉願上候(御代官収賄の事)・中田町千脇家蔵 〃
○嘉永三戌年(一八五〇)三月 海岸御用人足□□□・石井家蔵 〃
○安政三辰年(一八五六)十二月 梵鐘之儀申上候書上・上泉町千脇家蔵 〃
○万延二酉年(一八六一)正月 高役人馬割附帳・石井家蔵 〃
○文久三亥年(一八六三)八月 差村一件願書写・石井家蔵 〃
以上いずれも「和泉村」とあって、寛永六年以来町名に移動は認められない。
さて、町名の由緒については、なんらの伝承も残っていない。ただ『千葉郡誌』(1)にあるように、上泉村と呼ばれ、いつか和泉村と改まった。しかし、旧泉町区内の町名は、ほとんどが水に縁のあることは妙な符合とも考えられる。当町は、鹿島川上流に開けた部落で、『日本地名小辞典』(2)で調べると、「和泉」は「神聖な土地の意」だとしてある。泉がこんこんと湧き出すさまを、神聖視していわれたものであろうが、その「いずみ」に対して、上泉の「うわいずみ」、それが「いずみ」と呼名が変化してきて、「和泉」の漢字を当てたものと考えられる。いくつかの支流の、それぞれに水源の泉があったものと考えられ、それから名付けられたものであろう。
- 註1 『千葉郡誌』 千葉県千葉郡教育会編、大正十五年。
- 2 『日本地名小辞典』 鏡味完二編、角川書店、昭和三十九年。