当町は、旧白井村の一村で、山家郷白井荘に属し、村の古老に聞いた伝承によると、嘉承年中(一一〇六~一一〇七)に開村したそうである。また、石井家の先祖が平将門の残党で、逃げて野呂の山中に隠れ住んだとの話だが、将門の討伐されたのが、天慶三年(九四〇)だから、その百六十年後に開村したことになる。
この町は、住古は千葉家の支配地であったことは間違いないと考えるが、その後は、「長享二年(一四八八)、酒井越中守の領地となる」と『千葉郡誌』(1)にある。また、「天正三年(一五七五)、斉藤善七郎胤次の支配地」と野呂村妙興寺の寄進状にある。のち、天正十八年(一五九〇)には、徳川家の所領となり、慶長元年(一五九六)に家臣内藤修理亮の支配所となり、さらに、慶長四年(一五九九)には、堀田加賀守の知行所となった。以下表にしてみよう。
○往古 千葉家支配
○長享二年(一四八八) 酒井越中守・『土気城伝記』
○天正三年(一五七五) 斉藤善七郎胤次・野呂町妙興寺蔵寄進状
○慶長元年(一五九六) 内藤修理亮 『千葉郡誌』
○慶長四年(一五九九) 堀田加賀守 〃
○寛永元年(一六二四) 土井大炊頭(佐倉) 〃
○正保二年(一六四五) 代官支配 〃
○正保四年(一六四七) 堀田加賀守(佐倉) 〃
○寛文十二年(一六七二) 代官鈴木九太夫 〃
○貞享三年(一六八六) 戸田山城守(佐倉) 〃
○元禄三年(一六九〇) 代官鈴木九太夫 〃
○元禄十三年(一七〇〇) 戸田土佐守忠章 〃
○宝暦十一年(一七六一) 戸田大学 〃
○安政六年(一八五九) 戸田河内守 〃
○文久三年(一八六三) 戸田下総守 〃
○慶応四年(一八六八) 北生実森川出羽守取締所 〃
○明治元年(一八六八) 宇都宮戸田土佐守所領 〃
○明治三年(一八七〇) 高徳藩 〃
○明治三年(一八七〇)三月 曽我野藩第七大区第二小区に編入 〃
○明治四年(一八七一) 印旛県に属す 〃
○明治六年(一八七三)七月 第十一大区第三小区となる 〃
○明治十年(一八七七)十二月 野呂村外二ヶ村にて、野呂は戸長役場を置く
次に、資料より町名をみると、
○建治二乙亥年(一二七六)十二月 妙興寺差出帳・野呂町妙興寺蔵 野呂村
○延徳二庚戌年(一四九〇)霜月 妙興寺縁起・妙興寺蔵 千葉郡野呂村
○天正三乙亥年(一五七五)霜月 野呂はが山寄進状(寺所蔵寄進状)・妙興寺蔵 野呂村
○寛永十九午年(一六四二)八月八日 相渡申一札之事(とりばみ野争論の事)・野呂町石井家蔵 〃
○慶安三庚寅年(一六五〇)四月三日 御朱印頂載に関する文書・妙興寺蔵 野呂郷
○貞享元甲子年(一六八四)十一月 乍恐以書付御申分仕候事(妙充寺宗門詮議の事)・今井町福正寺蔵 野呂村
○貞享三寅年(一六八六)四月二十四日 下総国千葉郡野呂村御差出帳・石井家蔵 〃
○元禄十丁丑年(一六九七)十二月五日 妙興寺差出状佐倉御寺社奉行宛・妙興寺蔵 〃
○元禄十六年(一七〇三)十二月 野呂村差出帳・石井家蔵 〃
○享保九辰年(一七二四)五月十九日 一札之事(地境争論の事)・石井家蔵 〃
○享保九辰年(一七二四)五月二十日 一札之事(秣刈場境争論の事)・石井家蔵 〃
○宝暦四甲戌年(一七五四)十月 網代乗物に関する文書・妙興寺蔵 〃
○天明三卯年(一七八三)十月 野呂村田方谷限反別控帳・石井家蔵 〃
○寛政七卯年(一七九五)正月 御鹿狩御触書並御廻状控帳・石井家蔵 のろ村
○文政十亥年(一八二七)十月 差上申一札之事(無宿者逗留の事)・石井家蔵 野呂村
○文政十二丑年(一八二九)八月 下総国千葉郡野呂村差出帳・石井家蔵 〃
○天保八酉年(一八三七) 乍恐以書付奉願上候(御代官収賄の事)・石井家蔵 〃
○天保八酉年(一八三七) 一金壱分不埓之義有之御召捕相成候節奉差上候・石井家蔵 野呂村
○天保八酉年(一八三七) 一金三分十三軒病難之砌奉差上候・石井家蔵 〃
○弘化四未年(一八四七)三月 野呂村田方谷限反別控帳・石井家蔵 〃
○嘉永二酉年(一八四九)極月二日 妙興寺本堂仕用帳・石井家蔵 〃
○嘉永三戌年(一八五〇)三月 海岸御用人足□□□・石井家蔵 〃
○安政二卯年(一八五五)十二月十九日 借用申米証文之事・石井家蔵 〃
○安政三辰年(一八五六)十二月 梵鐘之儀申上候書付・上泉町千脇家蔵 〃
○安政四己年(一八五七)正月 乍恐以書付奉願上候(組頭退役願)・石井家蔵 〃
○安政四年(一八五七)五月 乍恐以書付奉願上候(風損木の事)・石井家蔵 〃
○安政六未年(一八五九)九月六日 差上申場所書之事(御召捕の事)・石井家蔵 〃
○万延元申年(一八六〇)三月 乍恐以書付奉願上候(橋修理の事)・石井家蔵 〃
○万延二酉年(一八六一)正月 高役人馬割附帳・石井家蔵 〃
○文久二戌年(一八六二)八月 野呂村妙興寺本堂仕用帳・石井家蔵 〃
○文久三亥年(一八六三)八月 差村一件願書写・石井家蔵 〃
以上三十通の資料をみても、建治二年より以来、町名「野呂村」に変更は認められない。
次に、町名の起源について考えてみると、野呂について、『日本地名小辞典』(2)では、『淀んだ所、砂泥地、緩斜地』とあり、『方言辞典』(3)でみると、「砂や泥のぬるぬるしている所をのろという」と出ている。柳田国男の『地名の研究』(4)に、「山の麓の緩傾斜地、普通に裾野と称するものが之に当って居ることは既に故人も説いて居るのである。斯う地形には水が豊かに流れ、日がよく照して快活に居住し得られた。野は一方が山地であり、又僅かなる高低のあることも意味したらしい」とある。当町の地形もこれに似て、傾斜地で泥田が多かったところから名付けられたものであろう。
- 註1 『千葉郡誌』 千葉県千葉郡教育会編、大正十五年。
- 2 『日本地名小辞典』 鏡味完二編、角川書店、昭和三十九年。
- 3 『全国方言辞典』 東条操編、東京堂、昭和三十九年。
- 4 『地名の研究』 柳田国男著、実業之日本社、昭和二十二年。