当町は、旧白井村の一村で、「往古は白井村と名付く」とある。『千葉郡誌』(1)によると、長享二戌申年(一四八八)の頃は、酒井定隆の領地であり、慶長四年(一五九九)十月には、堀田家の知行所となり、元禄十五年(一七〇二)頃には、戸田能登守家から分家した戸田大学の知行所となった。その後は、代々相続して明治初年まで続いた。鎮守様・第六神社は、慶長十年(一六〇五)四月に、社殿が再建されたと『千葉郡誌』にある。
次に町名の推移を資料よりみると、
○寛永十九午年(一六四二)八月八日 相渡申一札之事(とりばみ野争論の事)・野呂町石井家蔵 河井村
○享保十三戌申年(一七二八)正月十五日 村内の蓮乗山栄久寺の棟札・川井町栄久寺蔵 川井村
○享和二壬戌年(一八〇二)八月 栄久寺半鐘の銘文・栄久寺蔵 〃
○文政十二丑年(一八二九)八月 野呂村差出帳・石井家蔵 〃
○天保七申年(一八三六)四月 為取替申一札之事(蛇喰野論争訴訟の事)・中田町千脇家蔵 〃
○天保八酉年(一八三七) 乍恐以書付奉願上候(御代官収賄の件) 〃
○天保十亥年(一八三九)八月 為取替議定書之事(屋敷出入の事) 〃
○嘉永三戌年(一八五〇)三月 海岸御用人足□□□・石井家蔵 〃
○安政三辰年(一八五六)十二月 梵鐘之議申上候書付・千脇家蔵 川井村
○万延二酉年(一八六一)正月 高役人馬割附帳・石井家蔵 〃
○文久三亥年(一八六三)八月 差村一件願書写・石井家蔵 〃
以上、いずれの諸書にも「川井村」とあって、町名の変動は認められない。
町名の起源については、『日本地名小辞典』(2)に、「川井・川合・川会は、合流点を指す」とあり、読み方も、「かわい」、古老は「かわえ」と呼んでいて、都川の上流で、支流との合流点に当っている。すなわち、地形から考案され、名付けられたものと考えられる。
- 註1 『千葉郡誌』 千葉県千葉郡教育会編、大正十五年。
- 2 『日本地名小辞典』 鏡味完二編、角川書店、昭和三十九年。