当町は、宝暦十一年(一七六一)五月には、戸田土佐守の所領で、川井町の隣村である。都川の支流に沿っていて、浜野町に通ずる昔の浜街道に面した部落である。
『千葉郡誌』(1)によると、当町の熊野神社は、創建年代は不明であるが、万治二年(一六五九)九月に社殿が再建されたとある。現存の社殿も相当古びている。
また正福寺は、一名「不動堂」と呼ばれ、御本尊の銘文によると、元禄二己巳年(一六八九)二月十五日に造営されたことになっている。
資料より町名の推移をみると、
○寛政七卯年(一七九五)正月 御鹿狩御触書並びに御廻状控帳 佐和村
○天保八酉年(一八三七) 乍恐以書付奉願上候(御代官収賄の事)・中田町千脇家蔵 〃
○文久三亥年(一八六三) 差村一件願書写・野呂町石井家蔵 〃
古くから、「佐和村」に変りはないようである。
町名の起源については、地形から名付けられたと思われる。『全国方言辞典』(2)には、「木の茂っている窪地で、雨が降れば水の流れる川、また谷のことを「さわ」と呼ぶ」とある。また『日本地名小辞典』(3)にも、同様のことが書かれている。この「さわ」が漢字の「佐和」に置きかえられたと考えられる。
- 註1 『千葉郡誌』 千葉県千葉郡教育会編、大正十五年。
- 2 『全国方言辞典』 東条操編、東京堂、昭和三十九年。
- 3 『日本地名小辞典』 鏡味完二編、角川書店、昭和三十九年。