多部田町(たべたちょう)

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 当町は、多部田、落井の二部落から構成されており、旧白井村に属していた。往古は、山家郷白井荘に含まれ、宝暦十一年(一七六一)五月、戸田土佐守の知行所であったが、古くは、千葉家の領地で、千葉介胤政の八男胤忠が「多部田太郎」と称していたことが、『千葉大系図』(1)、『千葉盛衰記』(2)の記事にある。

 当町には、城跡と呼ばれるところがあって、ここに居城したので、その土地の名称をとって、「多部田太郎」と呼ばれたのではないかと思われる。

 また同じ本に、千葉介胤富の時代に、「白井入道、下総千葉郡田部多村に住居す、依って、白井入道田部多殿と称す、今其の旧蹟を残す」とある。

 また、『千葉盛衰記』の「下総千葉家城記」に、物頭役以上のうちに、多部田五郎左衛門という人物が出ているが、当町出身の人物ではないかと思われる。

 当町にある最福寺は、大永元年(一五二一)五月に改宗した寺だそうである。創建は、相当古い時代のことだと思う。

 次に、町名の推移をみると、

 ○享保二十乙卯年(一七三五)      乍恐以書付奉願上候事(助郷村々取極の事)  多部田村

 ○延享二乙丑年(一七四五)九月     多部田町五社神社の石鳥居銘文         〃

 ○宝暦八年(一七五八)十月       最福寺の寺号標銘文・多部田町最福寺蔵     〃

 ○宝暦十一年(一七六一)五月      下総国各村級分書上・『改訂房総叢書』所収  戸田土佐守知行多辺田村

 ○寛政六年(一七九四)十二月      多部田町五社神社の水鉢銘文          〃

 ○寛政七卯年(一七九五)正月      日記(小金原御鹿狩勢子人足割の事)・刈田子町高梨家蔵  〃

 ○安政二卯年(一八五五)十二月十九日  借用申米証文之事・野呂町石井家蔵       〃

 ○安政三辰年(一八五六)十二月     梵鐘之儀申上候書付・中田町千脇家蔵      〃

 ○文久二戌年(一八六二)五月      東寺山村馬毛附帳・東寺山町豊田家蔵      〃

 以上のとうり、町名に変化はみられない。

 しかし、町名の起源については、『日本地名小辞典』(3)でみると、「部田は泥で泥田が多い場所である」としている。この町名も、そうした地形から名付けられたと思われる。