北谷津町(きたやつまち)

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 「旧白井村の一村にして、足利時代千葉氏の所領なりし」というほかに記録として取り上げるべきものはない。鎮守・香取神社続きの東方台地から、縄文式土器および土師器の出土する包含地があって、かなり古くから開拓されていたと想像される。

 古くは、千葉家の所領で、中頃は不詳だが、宝暦十一年(一七六一)、戸田能登守と戸田土佐守の相給で、そのまま明治まで続いた。

 町名の移動を、資料を通じてみると、

 ○宝永七寅年(一七一〇)十二月    金親村見取絵図・金親町松本家蔵      北谷津村

 ○享保二十乙未年(一七三五)     乍恐以書付奉願上候事(助郷村々取極の事)  〃

 ○元文六酉年(一七四一)二月     金親村新田畑書上帳・松本家蔵        〃

 ○宝暦八年(一七五八)        多部田町最福寺の寺号標銘文         〃

 ○天明七丁未年(一七八七)      大厳寺鐘楼起立勧進序・大厳寺蔵       〃

 ○寛政七卯年(一七九五)正月     日記(小金原御鹿狩勢子人足割の事)・刈田子町高梨家蔵  〃

 ○文政二乙卯年(一八一九)九月    堀田候金光院被成御入候留記・金親町金光院蔵  〃

 ○天保十五年(一八四四)       御領分御林新田高改・川戸町鈴木家蔵    北谷津村

 ○弘化三午年(一八四六)八月十一日  堀田備中守様御遠馬留記           〃

 ○嘉永五子年(一八五二)十月     堀田備中守御遠馬留記            〃

 ○安政二乙卯年(一八五五)八月    為取替済口証文之事(金光院後任の事)    〃

 以上の諸書いずれにも、「北谷津村」とあって、移動はない。町名は、細長い谷津の周辺にできた部落で、地理条件から名付けられたものと考えられる。