旧更科村の一村で、中田、川崎、宮田の三区で構成されていたが、昭和三十八年、更科町と御殿町に分町した。
『千葉郡誌』(1)によると、「当村の真光寺は、元は真言宗の寺で、本乗寺と称し、寛文十二壬子年(一六七二)、当時の領主・北条安房守殿から、境内五反二畝十六歩を除地として寄附せられ、堂宇、庫裡、表門、その他塔中四ヶ坊が創立せられた」とある。元禄十一寅年(一六九八)五月の「仲田村指出帳」によれば、真光寺の前身である本乗寺は、日蓮宗の寺であったという。さて、寛文十年(一六七〇)、この寺は、本寺と末寺との間柄で、訴訟を起し、潰れて廃寺となったのをその廃寺址に、前記のような北条安房守の被護をうけて、寛文十二年(一六七二)、日精上人による改宗開山となって、中田町の富貴楽に堂を建立し、真光寺と称した。
古くは、足利時代、千葉家の所領で、天正十八年(一五九〇)八月、北条安房守氏勝が佐倉において二万石に封ぜられた時、本村もその所領の中に含まれたのであろう。のち、宝暦十一年(一七六一)五月には、戸田土佐守の知行所となり、寛政五己年(一七九三)七月には、戸田政五郎のものとなった。
町名の移り変りをみると、
○元禄十一寅年(一六九八)正月 下総国千葉郡仲田村差出帳・中田町千脇家蔵 中田村
○宝永七寅年(一七一〇)十二月 金親村見取絵図・千脇家蔵 〃
○享保十三戍申年(一七二八)正月 下総国川井村蓮乗山栄久寺の棟札・千脇家蔵 〃
○明和六己丑年(一七六九) 大井戸村薬王寺墓所出入返答書・千脇家蔵 〃
○寛政四子年(一七九二)八月 相渡一札之事(妻預り証文)・千脇家蔵 宮田村
○寛政五己年(一七九三)七月 植付届出証文・千脇家蔵 中田村
○寛政七卯年(一七九五)正月 御鹿狩御触書并御廻状控帳・千脇家蔵 〃
○文化五辰年(一八〇八)三月 送り状一札之事(奉公人別送り)・千脇家蔵 宮田村
○文政四巳年(一八二一)六月 乍恐以書付御届奉申上候(抜詣り伊勢参宮事)・千脇家蔵 宮田郷
○文政六未年(一八二三)四月 下総国印旛郡寒川筋用草村御差出帳(八街町史料) 中田村
○文政六未年(一八二三)六月 乍恐以書付奉願上候(中田村出身仲間宇之助への貸金取立ての事)・千脇家蔵 〃
○文政十亥年(一八二七)十月 差上申一札之事(無宿者逗留の事)・千脇家蔵 〃
○文政十三寅年(一八三〇)三月 送り申一札之事(嫁送り宗門別送りの事)・千脇家蔵 宮田村
○天保元寅年(一八三〇)正月 乍恐以書付奉願上候(川普請材料の事)・千脇家蔵 川崎郡
○天保七申年(一八三六)四月 為取替申一札之事(蛇喰野争論の事)・千脇家蔵 〃
○天保七申年(一八三六)五月 乍恐以書付御届奉申上候(田方植付届の事)・千脇家蔵 宮田村
○天保七申年(一八三六)八月 願書留・千脇家蔵 中田村
○天保七申年(一八三六)十一月 奉願候覚(年貢延納の事)・千脇家蔵 宮田村
○天保八酉年(一八三七)正月 乍恐以書付奉願上候(名主退役願の事)・千脇家蔵 〃
○天保八酉年(一八三七)二月 為取替議定証文之事(地境争論の事)・千脇家蔵 中田村
○天保八酉年(一八三七)四月 ほしか代拝借証文之事・千脇家蔵 〃
○天保八酉年(一八三七)四月 乍恐以書付奉願上候(真光寺寺務取扱の事)・千脇家蔵 〃
○天保八酉年(一八三七)七月十六日 乍恐以書付奉願上候(真光寺後任の事)・千脇家蔵 〃
○天保八酉年(一八三七)七月 乍恐以書付奉願上候(御代官収賄の事)・千脇家蔵 〃
○天保十亥年(一八三九)三月 為取替申一札之事(土地出入の事)・千脇家蔵 宮田村
○天保十三寅年(一八四二) 千葉郡川崎郷五人組下帳・千脇家蔵 川崎郷
○嘉永三戌年(一八五〇)三月 海岸御用人足□□□・千脇家蔵 中田村
○安政三辰年(一八五六)十二月 梵鐘之儀申上候書付・千脇家蔵 〃
以上の諸書をみると、いずれも中田村、宮田村、および川崎郷とあって、昔より宮田、川崎は中田村に含まれていることなので、村名の移動は認められない。
ただ、元禄十一年(一六九八)の「差出帳」の村名が「仲田村」となっていることは、読み方は同じでも、仲田と中田を使い分けた年代があったと思われる。
町名の起源については、資料も伝承もなにも残っておらず不明である。しかし、この町も、地理的地形から、名付けられたものであろう。
- 註1 『千葉郡誌』 千葉県千葉郡教育会編、大正十五年。