「往古は、葛飾郡白井荘に属し、享保年中千葉郡となる」と、『千葉郡町村分合調書』(1)に出ている。旧白井村に属していたが、いつから、旧更科村の一村に移動したか、その時期は不明である。
古いことは不明であるが、元禄十三年ごろ、戸田能登守家から分家した戸田大学の知行所となって、宝暦十一年(一七六一)には、戸田土佐守の知行所となった。
町名の推移を資料からみると、
○寛永十九午年(一六四二)八月 相渡申一札之事(とりばみ野争論の事) 古泉村
○宝暦十三年(一七六三) 印旛郡勢田村指出帳奥書(八街町史料集) 〃
○文政十二丑年(一八二九)八月 下総国千葉郡野呂村差出帳・野呂町石井家蔵 〃
○天保七申年(一八三六)四月 為取替申一札之事(蛇喰野争論の事) 〃
○天保八酉年(一八三七)七月十六日 乍恐以書付奉願上候(真光寺後任の事)・中田町千脇家蔵 〃
○天保八酉年(一八三七)七月 乍恐以書付奉願上候(御代官収賄の事)・千脇家蔵 〃
いずれも古泉村とあって、寛永以来、村名の変更は認められない。
これは、水に縁のある地名で、「泉とは、神聖なる所との意なり」と『日本地名小辞典』(2)で説明しているところから考えて、湧き出ずる泉を神聖視して名付けられたものだと思われる。
- 註1 『千葉郡町村分合取調書』 千葉県立中央図書館編、『千葉県地名変遷総覧』所収、昭和四十五年。
- 2 『日本地名小辞典』 鏡味完二編、角川書店、昭和三十九年。