富田町(とみだちょう)

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 旧更科村の一村で、往古は、千葉家の勢力範囲であったと考えられる。しかし、資料は出ていない。天正十八年(一五九〇)、北条氏勝が佐倉において二万石に封ぜられた時の、知行所の内の一村であったことは、周囲の村々からも考えられるところである。降って元文五申年(一七四〇)六月、および、宝暦十一年(一七六一)には、いずれも戸田土佐守の知行所となっている。

 町名の移り変りをみると、

 ○寛永十九午年(一六四二)八月八日  相渡申一札之事(とりばみ野争論の事)        富田村

 ○享保八卯年(一七二三)九月     下総国印旛郡寒川筋稲葉村差出帳(八街町史料集)    〃

 ○享保十九寅年(一七三四)霜月    富田町正福寺の梵鏡銘文・正福寺蔵           〃

 ○元文五申年(一七四〇)六月     小間子牧附村々国郡石高地頭付(八街町史料集)     〃

 ○寛政元己酉年(一七八九)十月    取替置申一札之事(小間子牧村々取極の事)(八街町史料集)  富田村

 ○寛政八辰年(一七九六)二月     小間子牧新林人足赦免願(八街町史料集)        〃

 ○文化十二亥年(一八一五)八月七日  御野馬捕御用一件(八街町史料集)           〃

 ○文化十三子年(一八一六)八月    乍恐以書付奉願上候(小間子牧野馬捕牧士宿の事)(八街町史料集) 〃

 ○天保八酉年(一八三七)       乍恐以書付奉願上候(御代官収賄の事)(八街町史料集)  〃

 ○嘉永三戌年(一八五〇)三月     海岸御用人足□□□・中田町千脇家蔵          〃

 ○安政三辰年(一八五六)十二月    梵鐘之儀申上候書上・千脇家蔵             〃

 いずれも「富田村」とあり、寛永以来村名に変化はみられない。

 町名の起源については、何の資料も得られなく、不明である。