上泉町(かみいずみちょう)

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 旧更科村の一村で、葛飾郡白井荘に属し、享保年中に千葉郡に編入された。

 『千葉郡誌』(1)に、上泉村の宝泉寺について、「由緒古老の伝承に曰く、当時、往昔は真言宗にして、中古延徳度関東七里法華の開祖・日泰上人の教化により、日蓮宗に改む。境内は、其の地頭・北条氏勝の寄進たり。証文あり。堂宇は、元治元年(一八六四)焼失、鐘楼堂外二三宇を残すのみ」とある。氏勝の寄進状は、幅にして保存されている。


挿図51 北条氏勝寄進状〔元和~寛永)

 主題から脇道にそれるが、氏勝について、少々ここで述べておく。

 氏勝は、相模国玉縄の城主・北条氏繁の子で、小田原征伐の時、小田原方に属し、箱根の山中城を守っていたが、天正十八年(一五九〇)三月二十九日、戦に破れて敗走し、小田原城に入城せずに玉縄城に帰り、同年四月二十一日、徳川家康の諭降に従って、豊臣方に降伏した。家康に随身して、家康関東入部の時、天正十八年八月、佐倉において二万石に封ぜられ、慶長十六年(一六一一)三月二十四日に死亡している。

 さて、寄進状の日付は「午仲秋吉日」となっているから、佐倉へ封ぜられた天正十八庚寅年から午の年を取り上げてみると、文禄三甲午年(一五九四)と慶長十一丙午年(一六〇六)と二回あるから、文禄三年か慶長十一年の秋に寄進されたものと思われる。入部早々に、すなわち、文禄三年の秋に寄進されたものと考えるのが正しいと思われる。

 北条氏以前は、足利時代、千葉家の所領だという以外に記録らしいものがない。

 しかしながら、当町の台地に、女城(めじろ)という城址があり、千葉常胤の居城だと村人は伝承している。この城址附近には、縄文式土器および住居址などが出土して、北谷津町と同様、古くから開村されていたと思われる。元文五申年(一七四〇)、戸田土佐守の知行所となり、村高三百四十三石四斗、宝暦十一年(一七六一)、戸田土佐守の知行所となった。

 次に町名について資料よりみると、

 ○享保二十乙卯年(一七三五)       乍恐以書付奉願上候事(助郷村々取極)        上泉村

 ○元文五申年(一七四〇)五月       小間子牧村々国郡石高地頭付(八街町史料集)      〃

 ○明和六己丑年(一七六九)八月      大井戸村薬王寺墓所出入返答書(大井戸町区有文書)   〃

 ○安永六酉年(一七七七)八月       乍恐以書付奉願上候事(印旛郡砂村たか匠勤方の事)(八街町史料集)  〃

 ○寛政元己酉年(一七八九)十月      取替置申一札之事(小間子牧村々取極の事)(八街町史料集)  〃

 ○寛政七卯年(一七九五)正月       日記(小金原御鹿狩勢子人足割の事)・刈田子町高梨家蔵  〃

 ○寛政九己年(一七九七)八月       乍恐以書付御訴訟奉申上候(助郷人馬の事)       〃

 ○文化十二亥年(一八一五)八月七日    御野馬捕御用一件(小間子牧野馬捕御用の件)(八街町史料集)  〃

 ○文化十三子年(一八一六)八月      乍恐以書付奉願上候(小間子牧野馬捕牧士宿の事)(八街町史料集)  上泉村

 ○天保八酉年(一八三七)         乍恐以書付奉願上候(御代官収賄の事)・中田町千脇家蔵  〃

 ○天保十亥年(一八三九)三月       為取替申一札之事(土地出入の事)           〃

 ○弘化三丙午年(一八四六)二月十九日   平山村名主四郎左衛門より相手取候之事(名主と村民の出入の事)・千脇家蔵  〃

 ○安政二卯年(一八五五)十二月二十九日  借用申米証文之事                   〃

 ○安政二卯年(一八五五)十月       乍恐以書付奉歎願候(宿留に付歎願の事)        〃

 ○安政三辰年(一八五六)         梵鐘之儀申上候書付・千脇家蔵             〃

 以上いずれの書付にも「上泉村」とあり、町名の変更は認められない。

 この町は、鹿島川の上流にあって、それぞれの支流の泉からとって名付けられたと考えられる。