旧更科村に属していた一村。次の項の下田町と同様、その領主は、千葉家から北条氏勝に変り、のち宝暦十一年(一七六一)には、戸田能登守の知行となった。なお、天保十五年(一八四四)の「御領分御林新田高改」(1)には、「臼井庄谷当村」とあって、堀田領であった。
町名の起源については、地形から名付けられたと推定される。
町名の移り変りについてみると、
○宝永七寅年(一七一〇)十二月 金親村見取絵図・金親町松本家蔵 谷当村
○享保十二未年(一七二七)九月 谷当町真照院本尊・薬師如来の台座裏銘文・真照院蔵 〃
○享保二十乙卯年(一七三五) 乍恐以書付奉願上候事(助郷村々取極の事) 〃
○元文六酉年(一七四一)二月十一日 金親村新田畑書上・松本家蔵 〃
○寛政三亥年(一七九一)二月 金親村田野主人代々村記事・松本家蔵 〃
○享和元年(一八〇一)正月 大井戸村田方名寄帳(大井戸町区有文書) 〃
○文政二己卯年(一八一九)九月 堀田候金光院被成御入候留記・金親町金光院蔵 〃
○天保十五年(一八四四) 御領分御林新田高改・川戸町鈴木家蔵 臼井庄谷当村
○安政二乙卯年(一八五五)二月 下総国千葉郡大井戸村新田検地帳(大井戸町区有文書) 谷当村
○安政二乙卯年(一八五五) 下総国千葉郡下田村新田検地帳(下田町区有文書) 〃
以上いずれも「谷当村」と書かれていて、町名の移動はない。