常重は常兼の長子なり、元永元年家を承ぎ、下總權介に任じ正六位上に叙せらる。大治元年六月一日父常兼の遺命によりて長子常重千葉猪鼻城に移り、次子常家上總介に任じ、一宮柳澤城に居て兩國の介を分任す。常兼其の他の男子に等しく領地を授け世々常重の嫡家に屬せしむ、世に常兼の六黨と云ふ。
天承元年從五位下に叙せらる、保延元年二月累代の所領を嫡子常胤に讓りて下總介に任す、是に於て常重を千葉大介と稱す。爾來父在る時其子介に任せらるれは父を大介と號すること此に始まる。常重致仕して老を養ひ治承四年五月卒す、年九十八、法號を善應宥照院と云ふ、常重人と爲り智勇にして慈善の心厚く、能く衆心を得て上下融和し家名大に揚る。
猪鼻城址は高さ七十尺、北部丘岡突起、東部稍平坦なり、牙城址は丘の西北隅にありて土壘を繞らせり、周圍五町餘、北端に〓樓の址あり、東南に空濠址あり、西北崖に臨む。常將始めて之に城き、其の孫常兼に至りて一旦大椎の舊城に還りしが、是に至りて常重再ひ本城を完備して之に移れり。又城下に滿願寺光明寺を創建し、妙見祠を金剛授寺に建て、千葉寺に觀音堂を造る、是に於て城下大に繁昌す。大治元年より今年に至るまで滿八百年とす。
千學集に云ふ「大治元年丙午六月朔日はじめて千葉を立つ凡一万六千軒なり表八千軒裏八千軒、小路表裏五百八十余小路也、曾塲鷹大明神より御逹報稻荷の宮の御前まで七里の間御宿也、曾塲鷹より廣小路谷部田(ヤベタ)(今ノ刑務所ノ敷地及其附近)まで國中諸侍の屋敷也、是は池田鏑木殿の堀内有、御宿は御一門也、宿の東は圓城寺家風おはしまし、宿の西は原一門家風おはします、橋より向御逹報までは宿人屋敷なり、これにより河向を市塲と申なり、千葉の守護神は曾塲鷹大明神堀内午頭天王、結城の神明、御逹報の稻荷大明神、千葉寺の龍藏權現是なり、弓箭神と申は妙見八幡摩利支天菩薩是なり、千葉神事は大治二年丁未七月十六日より始まるなり、常重御代の事也、御幸假屋は神主八人、社家八人乙女四人御祭の御舟は宿中の老者の役なり、供物は千葉中野十三貫ところ也、同關錢諸待衆上け申也一ノ關は假屋の供物を神主にとらせ一ノ關は老者にとらせて御祭を勸め申也結城舟は天福元年癸已七月廿日より始る也、時胤の御代の事也御濱下りの御送の御舟なり、結城の村督(ヲサ)に宍倉出雲守と申もの永鏡のために取立しもの也、結城は今の寒川なり、大治二年御事の始より天正二年甲戌まで凡三百四十三年也」云々