第五代 千葉常胤卿

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常胤は常重の長子なり、保延元年家を繼き正六位上に叙し下總介に任せらる。保元元年源義朝に從ひて白河殿を攻む。治承四年八月源朝賴兵を石橋山に擧けしも敗れて安房に遁れ安西景益による、景益は千葉常長の第六子常遠の孫なり。九月四日安逹盛長を千葉に遣はして常胤を招かしむ、常胤乃ち盛長を迎接して其の子胤政胤賴と共に具に盛長の演說を聞きて、暫く默然たりしに、其の子胤政胤賴進んて曰ふ「賴朝の命何ぞ猶豫すべき速に承諾の旨を答へられよ」と。常胤涙を流して源家再興の志を感し、先つ杯を献して盛長の勞を慰し、且賴朝に勸むるに鎌倉に據らんことを以てせり。尋いて賴朝を千葉に迎ふ、常胤兵を聚め賴朝に續いて發せんとするや、子胤賴州の目代某を撃たんことを乞ふ、乃ち胤賴及ひ孫成胤を遣り撃ちて之を斬らしめ、尋いて州人千田親政を擒にす。九月十七日常胤六子及ひ成胤等と三百余騎を率ゐ賴朝に下總の國府に會して捕虜を献す。十月三日常胤命を受け子弟を遣りて上總の伊北常仲を撃たしむ、長子胤政等往いて之を平ぐ。

此の月賴朝府を鎌倉に奠め、尋いで駿河に至り平維盛の軍と富士川に相持す常胤之に從ふ。旣にして賴朝平氏を破りて上洛せんとするや常胤等常陸の佐竹義政等未た服せさるを以て之を諫止す。賴朝乃ち鎌倉に還り常胤等の功を賞す。十一月賴朝常胤等を從へ常陸を討ちて義政を殺し、其の弟秀義を金砂城に攻めて之を抜く。

元曆元年正月常胤其子師常、胤通、胤賴を率ゐて源範賴に從ひて義仲を京師に破り、又平氏を攝津に撃つ。八月復胤賴及ひ孫常秀を率ゐて西海に赴く、賴朝命して特に馬を賜ひ範賴の軍事を參决せしむ。文治元年平氏滅びて後賴朝常胤の功を賞し海上郡三埼莊を與ふ。賴朝諸國に守護地頭を置くに及ひ常胤を以て下總の守護とし上總國武射市原二郡を加賜す。五年賴朝の陸奧を征するや常胤海道の將となり常陸下總の兵を率ゐて賴朝に多賀の國府に會す、五子二孫皆之に從ふ。陸奧平きて後常胤の功多かりしを以て諸子に陸奧の諸郡を賜ふ。建仁元年三月卒す、年八十四、千葉山[海隣寺]に葬る法號を凉山圓淨院と云ふ。

常胤人となり重厚にして勸儉、衣服器用質素にして奢らす故に巨冨の稱ありて多く兵士を養ふ、賴朝嘗て美服を纒ひて出仕せる筑後權守俊兼の小袖の褄を切りて千葉常胤と土肥實平の儉素に傚へと戒めたりと云ふ。賴朝父子の親みを以て之に接す、常に曰ふ「功臣を賞するには當に常胤を以て首となすべし」と、常胤は實に幕府の元勳たりしのみならす鎌倉時代武人の典型たりと謂ふべし。七子あり胤政・師常・胤盛・胤信・胤通・胤賴・日胤と云ふ、武石・國分・東・圓城寺等諸氏の祖となる。

千葉庄[千葉郷池田郷加曾利郷三枝郷(作草郡カ)等を千葉庄と云ふ。千葉郷は今の千葉寺、仁戶名、川戶、佐和、川井、富岡、小花輪遍田、平川、野呂の諸郡落を含み、池田郷は千葉、寒川、登戶、矢作、五田保、今井、大森、宮崎、生實、赤井、曾我野、濱野等の諸群落なるべし。]は常胤か鳥羽上皇に伺候したる時献上して皇室御領としたるものなるべし。吾妻鏡文治三年の條に「千葉庄八條院御領」とあるは即ち是なり。鳥羽上皇は之を院の廳分とし給ひ、後美福門院に讓らせられ、美福門院は其の腹に生れ給へる皇女八條院璋子内親王に傳へられたるなり。千葉庄は皇室御領となりてより千葉北庄千葉南庄となりて、今の千葉郡の大半及ひ印旛郡の一部を包含するに至れり。

千葉庄は後ち八條院より順德、龜山、後宇多、後醍醐の諸帝に傳へられて鳥羽上皇以來二百有余年の間特に皇室の恩顧を蒙るに至れり。是れ後世千葉氏より勤王の將士を出したる一因たるへく、實に千葉史上の誇と謂ふべし。