胤政は常胤の長子にして永治元年四月生る。父と共に首として源賴朝に屬して累りに功あり。養和元年四月賴朝善射にして且忠誠なる者十一人を選ひて宿直せしむ、胤政與かる。文治三年九月下總介に任じ從五位下に叙せらる世に新介と稱す。嗣子未た家督を繼かすして介に任せらるれは之を新介と稱すること此に始まる。建仁元年家を繼き賴朝の恩顧を蒙ること父の先蹤に異ならす。
建久元年奧州の人大河兼任亂を作すや胤政賴朝の命を受け陸奧の留守葛西淸重と與に撃て之を平く、仝三年七月卒す。賴朝の薨後三年なり。法號を西岸慶有院と云ふ、年六十一。八子あり、成胤・常秀・寛秀・胤廣・胤忠・業遠・師遠・胤時と云ふ、堺・三谷・邊田・寺尾・遠山・白井諸氏等の祖となる。