第七代 千葉成胤卿

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成胤は胤政の子にして幼名を小太郎と云ふ。父祖と共に首として賴朝に應し、州人判官代千田親政を擒にして出軍の賀に備ふ。建久四年賴朝那須野に獵するや弓馬に逹して隔心なき者二十二人を選ひて左右に列從せしむ成胤も亦之に與かる、時人之を榮とす。建仁二年家を繼き下總介となる。

承元二年將軍源實朝近國の守護補任の下文を檢す、成胤謂ふ「先祖以來下總國檢非違使所となり祖常胤に至り下總國守護に補せらる」と、乃ち其の職を繼かしめ、從五位上に叙す。建保元年泉親衡叛を謀り僧安念をして成胤を招かしむ、成胤之を捕へて幕府に送り、糺問して状を得、餘黨尋いて平く。六年四月成胤病む、實朝使を遣はして之を慰問す、此の月終に卒す、年六十三、法號を遠山紅雲院と云ふ。成胤勇猛智謀世の歎美する所なり、三子あり、胤綱・泰胤・時胤と云ふ。