賴胤は時胤の長子なり、幼名を龜若丸と云ふ、三歳にして家を繼く。建長五年將軍宗尊親王の隨兵を勤めしより屢隨兵となる。葛飾郡小金城を築く。建治元年八月卒す、年三十七、法號を常善法雲院と云ふ。二子あり、宗胤・胤宗といふ。
北肥戰志に云ふ「右大將の時千葉介常胤は鎭西の監職にて關東の所領の上肥前の國小城郡晴氣保を賜はりしより子孫代々當郡の地頭となりぬ、常胤六代の孫賴胤去ぬる文永年中蒙古武備として當國へ下てありけるか同十一年の冬蒙古と打戰疵を被り其手不愈して翌年三十七才にて失せぬ」云々。
第十代 千葉賴胤卿
賴胤は時胤の長子なり、幼名を龜若丸と云ふ、三歳にして家を繼く。建長五年將軍宗尊親王の隨兵を勤めしより屢隨兵となる。葛飾郡小金城を築く。建治元年八月卒す、年三十七、法號を常善法雲院と云ふ。二子あり、宗胤・胤宗といふ。
北肥戰志に云ふ「右大將の時千葉介常胤は鎭西の監職にて關東の所領の上肥前の國小城郡晴氣保を賜はりしより子孫代々當郡の地頭となりぬ、常胤六代の孫賴胤去ぬる文永年中蒙古武備として當國へ下てありけるか同十一年の冬蒙古と打戰疵を被り其手不愈して翌年三十七才にて失せぬ」云々。