宗胤は賴胤の長子にして貞胤の伯父たり、千田太郎と稱す。常胤以來の舊領肥前國小城郡晴氣を承ぐ大隅守に任せられ、九州千葉氏の祖となる。
延元元年正月足利尊氏の鎌倉に叛するや、北畠顯家陸奧より上洛す、宗胤一胤と共に兵を率ゐて之に從ふ。顯家坂本に至り尋いて新田義貞と共に園城寺を攻む、寺は尊氏の將細川律師定禪等の據る所なり。正月十六日宗胤千餘騎を從へ、先登して門を破りて前み、三方に敵を受けて奮闘せしが、定禪の四國勢六千餘騎に取圍まれて千葉新介一胤終に戰死す。部下の兵士憤戰して之に斃るゝもの百五十騎、乃ち後陣顯家に讓つて退く。尋いで宗胤は義貞顯家と共に敵を追撃し、三條河原に奮戰して船田義昌と共に戰死す、年七十三。千葉市宗胤寺は宗胤並に當時の戰死者を葬りたる所なり。
鎌倉大草紙に云ふ「此時宗胤は三井寺に討死し、貞胤は北國落までは宮方にて新田義貞の御供にてありしかとも、不心して尊氏の味方になりける間、宗胤の子息胤貞宮方にて千葉に殘り給ふ。此の人の子息日祐上人法華宗學匠にて下總國中山の法華寺の中興開山なり」云々
太平記に云ふ「明方に成りしかは源中納言顯家卿二万余騎新田左兵衛督義良三万余騎脇屋堀口額田烏山の勢一万五千余騎志賀辛崎濱路に駒を進め押寄せて後陣遲しとそ待ける前陣の勢先大津の西浦松本宿に火をかけて鬨の聲を揚三井寺の勢共兼てより用意したる事なれば南院の坂口に下合て散々に射一番に千葉介千余騎にて推寄一二の木戶を打破り城の中へ切て入三方に敵を受半時許鬪ふたり細川卿律師定禪か横合に懸りける四國の勢六千余騎に取籠られて千葉新介矢庭に討しにけれは其の手の兵百余騎荅の敵を討んと懸入懸人戰て百五十騎討しにけれは後陣に讓て引退、二番に顯家卿二万余騎に入替亂合ふて攻戰ふ」云々
梅松論に云ふ「武家の勢悉く京中へ引返す是に於て兩大將(尊氏直義)二條河原に打立給ふ(中略)義貞大將として三條河原の東の岸に魚鱗の陣を取りてひかへたり御方は大勢にて鶴翼のかこみをなし數千騎の軍兵旗を虚空に飜し時の聲天地をおとろかし互に射矢は雨の如し(中略)官軍には千葉介、義貞一人當千の船田入道、由良左衛門を始として千餘人討とらる。御方にも手負討死多かりける」云々
松蘿舘本千葉系圖に云ふ
賴胤-宗胤(※1)-胤貞(※2)-
-胤宗-胤重-貞胤-胤氏
※1
大隅守建武二年戰死於三
井寺建武三年正月十六日
三井寺戰千余キニ將トシ
テ一二ノ木戶ヲ破細川卿
定禪カ六千ニ圍マレ手勢
ノ三百五十打ル
※2
大隅守屬南朝從西征將軍
赴九州領肥前建武三年三
月多々良濱戰屬尊氏
[胤貞-]
胤高
建武三年
正月十六
日三井寺
戰死
日祐
法華宗再
興下總中
山創建