第十四代 千葉滿胤卿

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滿胤は氏胤の長子なり、正平二十年六歳にして家を繼きて下總介となる。年幼なるを以て將軍足利義詮敎書を下し氏族老臣に命して之を補佐せしむ。

弘和二年二月管領足利氏滿上杉朝宗をして小山義政を撃たしめし時、滿胤兵を率ゐて之に從ふ。應永五年氏滿卒し子滿兼嗣くに及んて自ら公方と稱し、關東の大族千葉滿胤及ひ小山・結城・長沼・佐竹・小田・宇都宮・那須を以て關東八舘と稱せしめ以て幕府の三職七頭に倣ふ。

十六年滿兼卒し子持氏嗣く。二十三年九月上杉氏憲の持氏に叛するや、滿胤は其の子兼胤が氏憲の女婿たるを以て之に黨し、兼胤及ひ次子康胤等と共に八千餘騎を率ゐて鎌倉に入りて持氏を攻む、持氏敗れて駿河に走り今川範政に依る。

將軍足利義持範政に命し、持氏を援けて上杉氏を討せしむ。二十四年正月氏憲敗れ鎌倉に自殺して事漸く平く。尋いて滿胤兼胤は持氏に降る。三十三年六月滿胤卒す、年六十七、法號を道山德阿彌陀佛と稱す。三子あり、兼胤・康胤・胤高是なり。