第十六代 千葉胤直卿

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胤直は兼胤の子なり、永享二年家を繼いて下總介となる。十年足利持氏執事上杉憲實と隙あり、八月憲實上野に奔る、持氏怒りて親ら出て撃つ、胤直之に從ふ。憲實變を京師に告けしかは、將軍足利義敎上杉持房等をして持氏を討たしむ。是より先胤直屢持氏を諫めて憲實と和せしめんとせしか聽かれす、是に至り陣を撤して歸る。十一月持氏敗れて鎌倉永安寺に入る、十一年二月憲實上杉持朝及ひ胤直をして永安寺を圍ましむ、持氏自殺す。十二年三月結城氏朝持氏の子春王安王と奉し結城に據りて兵を擧く、胤直上杉淸方に從ひて之を攻む、明年城遂に陷る。

寶德胤年將軍足利義政持氏の子成氏を以て鎌倉管領となす、胤直依りて成氏に仕ふ。上杉氏の臣長尾景仲・太田資淸等鎌倉の權を專にす、胤直及ひ關東の大族皆其の下に立つを耻ぢて嫌隙あり。二年四月景仲等夜成氏の第を襲ひしかは成氏江島に奔る。胤直小田時家と共に景仲等と由比濱に戰ひて大に之を破る。八月成氏鎌倉に還る。

享德三年成氏上杉憲忠を殺せしかは幕府令して成氏を討つ、康正元年三月家宰圓城寺尙任胤直に勸めて成氏に背きて上杉氏に黨せしむ、胤直は上杉氏の外孫なり。胤直性粗暴にして群下に禮なく爲に人心を失ふ。族原胤房子胤茂は圓城寺尙任と權を爭ひて相軋る、家臣黨を立てゝ分屬し千葉氏の家政大に亂る。是に於て胤房等成氏の兵を借りて胤直を千葉城に襲ふ、胤直防くこと能はす、走りて志摩城を保ち、子胤宣は多古城に據りて以て上杉氏の援を持つ。閏四月將軍足利義政胤直の成氏に應せさるを嘉みし、賜ふに太刀を以てす。

八月十二日叔父馬加康胤原氏を授け成氏に應して胤宣を多古城に攻む。胤宣乳母子圓城寺直時をして城を康胤に致さしめ、城外阿彌陀堂に詣りて自殺す、年十五、直時主の介錯して亦之に死す。

辭世に云ふ、

みだ賴む人はあまよの月なれや雲はれぬ共西へこそ行く。

見て歎き聞て弔ふ人あらば我に手向けよ南無阿彌陀佛。

椎名胤家・木内𢒊十郎・圓城寺又三郎・米井藤五郎・粟飯原助九郎・池内十郎・深山彌十郎・岡本𢒊八・青野新九郎・多田孫八・三谷新十・寺本彌七・中野十郎等皆之に殉す。

八月十五日胤直は志摩城に於て原胤房の圍を受け、保つこと能はすして走りて土橋東善院(今の久賀村)に入る。胤房亦之を圍みしかは胤直弟賢胤と共に自殺す、年四十二、法號を相應寺臨阿彌陀佛と稱す原胤茂其の遺骨を千葉大日寺に葬り、五輪石塔を建つ。池内守胤・圓城寺尙任・木内左衛門尉・池内藏人・多田伊豫守・粟飯原右衛門尉・高田胤行等皆之に殉す。金剛授寺の僧中納言坊胤宣の手習敎師たり、胤宣父子の死を聞き阿彌陀堂に到りて之を弔ひ、

   見るもうし夢に成行草の原うつつに殘る人のをもかけ

と詠して之を寺の柱に書きつけ、水に投して死せりと云ふ。

大治元年千葉常重猪鼻城に入りてより、茲に至るまで十三世三百三十年にして一旦中絕す。

胤將は胤直の長子なり、下總介となり新介と稱す。享德三年八月父に先だちて卒す、年二十五、法號を高山圓阿彌陀佛と稱す。

胤宣(大系圖宣胤大草紙胤宣)は胤直の次子なり、康正元年多古城に自殺す、年十五、法號を照山某阿彌陀佛稱す。家督を繼かすと雖も千葉介に凖して世代に入るゝことあり。

千葉氏は常重の父常兼より是に至るまで十六代とす。大日寺の墓碑は之による。