第十七代 千葉康胤卿

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康胤は滿胤の庶長子なり、初め馬加城に居りて馬加氏と稱し陸奧守に任せらる。才文武を兼ね威嚴ありて諸人に重んぜらる。康正元年原胤房を援け宗家を滅して自ら之を繼き、次子輔胤を岩橋(酒々井)に胤房を小金城に置きて、上杉氏に當らしむ。此年千葉城の殘破甚しきと、其の地の要害便ならさるとによりて城を佐倉將門山に築きて之に移り、菩提所海隣寺を城下に遷す。

將軍足利義政千葉氏の亂るるを聞き、其の族美濃郡上の城主東常緣をして、胤直の弟賢胤の子實胤を援けて康胤を討せしむ、十一月常緣濱春利と共に東下し、族國分・大須賀・相馬等の兵を合せて馬加城を攻め、康胤・胤房を走らしめて之を抜く。二年十一月康胤また常緣及び上杉氏の兵と上總八幡に戰ひて敗死す、年八十三、佐倉海隣寺に葬る、法號を大相常應法阿彌陀佛と稱す。八幡町無量寺にも其の墓あり。