昌胤の第二子なり、初め香取郡森山城を守る、天正七年甥親胤卒して子なきを以て其の後を承きて下總介となる、時に年五十三。永祿四年里見義弘兵を出し小弓臼井の二城を攻めて之を取る。尋いて胤富里見氏を討ちて兩城を恢復す。同七年正月國府臺の戰には胤富北條氏を援けて亦里見氏を破る。仝年三月上杉謙信の臼井城主原胤貞を攻むるや、胤富原氏を援けて對陣し遂に之を破る。其の他信𤣥・謙信・古河・佐竹・里見等の合戰に於て皆勝利を得、其の武功算するに遑あらす。天正十五年五月卒す、法號を眞巖常源其阿彌陀佛と稱す。
第二十五代 千葉胤富卿
昌胤の第二子なり、初め香取郡森山城を守る、天正七年甥親胤卒して子なきを以て其の後を承きて下總介となる、時に年五十三。永祿四年里見義弘兵を出し小弓臼井の二城を攻めて之を取る。尋いて胤富里見氏を討ちて兩城を恢復す。同七年正月國府臺の戰には胤富北條氏を援けて亦里見氏を破る。仝年三月上杉謙信の臼井城主原胤貞を攻むるや、胤富原氏を援けて對陣し遂に之を破る。其の他信𤣥・謙信・古河・佐竹・里見等の合戰に於て皆勝利を得、其の武功算するに遑あらす。天正十五年五月卒す、法號を眞巖常源其阿彌陀佛と稱す。