邦胤は胤富の子なり、天正中父に襲いて下總介となる。仝十年織田信長武田氏を滅し、尋いて其の將瀧川一益をして上野を鎭せしむ。信長千葉氏は關東の舊族なるを以て書を與へ馬を贈りて、力を一益に戮せて關東を平定せんことを依賴す。邦胤信長の書辭甚驕れるを怒り其の使者を髠し馬の鬣尾を剪りて之を放還せり。天正十六年正月近臣鍬田萬五郎小過あり邦胤之を呵責す、萬五郎違言ありしかは、邦胤怒りて之を蹴倒す、諸臣救解して之を退く。後數月邦胤意釋け稍之を近つく、七月朔日萬五郎邦胤を臥内に刺して逃る、諸臣追つて上總菊間臺に到りて之を殺す。邦胤創を病みて卒す、年廿九、法號を傑心常林法阿彌陀佛と云ふ。
古戰録に云「天正十六年戊子正月初旬新正の賀儀として旗下の大將六七人佐倉城へ來、毎例の如く禮式を整へ書院にて饗應あり、于時鍬田萬五郎と云近習の小冠者十八才なりしか配膳を勤ける間に放屁すること兩度に及ふ邦胤大に怒眼を苛らし辱しめて叱られしかは萬五郎其の坐の中央に跪き卒爾の失錯は庸常有ぬべき事なるに浩る晴なる坐中にて覿面に辱しめを蒙條情なき仕合也と憚處なく申ける故邦胤彌堪へ兼、蹴倒て短刀に手を掛られしを側より引立て退去し」云々