重胤は邦胤の長子にして、母は新田滿二郎の女なり、邦胤の嫡室北條氏[氏政の女]養つて子とす、天正十三年十歳にして下總介となる。是の時に當り重胤幼弱にして族臣原氏權を擅にし、千葉氏の勢日に衰ふ。北條氏直重胤を小田原に移して質となし、兵を遣はして佐倉城を守らしむ。十八年豊臣秀吉の北條氏を攻むるや、重胤の家臣原胤成等兵一万餘を率ゐて氏直を援け小田原城を守りしも、七月北條氏遂に亡ぶ。重胤及ひ其の弟俊胤の罪免れ難かりしも、幼少なるを以て德川家康深く之を哀れみ其の罪を免されんことを請ふ、秀吉之を聽す。秀吉德川氏の將本多忠勝・酒井家次等をして房總を徇へしむ。千葉氏の屬城悉く降る。後重胤の母東、德川秀忠の夫人に仕ふるの故を以て、秀忠重胤の流落を憫み、常陸宍戶の地百石を與ふ、重胤辭して受けす。寛永十年六月江戶に客死す、年五十八、後遺骨を佐倉海隣寺に納む、法號を月光常眞覺阿彌陀佛と云ふ。子なし、千葉氏の宗統茲に斷絕す。
康正元年康胤將門山に城居して千葉氏を中興せしより、天正十八年千葉氏滅亡の時に至るまで十一世百三十六年なり。
常將千葉氏を稱してより通して二十七世約五百五十年、常重猪鼻丘に城居せしより二十四世四百六十六年とす。千葉氏は累世深く士を愛し民を撫して根柢を培養せしを以て、久しく威力を房總に振ふことを得たり。所謂德を樹つること深厚なるものと云べし。
重胤の弟を俊胤と云ふ、俊胤は小田原落城の後蟄居せしか、家康の子信吉[萬千代]の佐倉城を領するや慶長三年往いて之に仕ふ。然るに信吉早世して俊胤浪人となり、慶長十年淺草鳥越村明神の神職となり、姓名を改めて鏑木式部と云ふ。
俊胤二子あり、胤正・正胤と云ふ。胤正は鳥越明神の神職を繼ぐ、現今淺草鳥越神社の神職たる鏑木建男(タケヲ)氏は即ち其の裔なり。正胤も寛永五年淺草第六天神社の神職となる、後之を他に讓りて轉居す、今の畫家鏑木淸方氏は其の裔なりと云ふ。
千葉重胤の後千葉氏の嫡流につきては異說あり、千葉傳考記等に詳かなり。