『千葉妙見大縁起絵巻』の「詞書」には、五人の筆跡(別表①のとおり。筆者が特定できないため、仮に「甲」、「乙」、「丙」、「丁」、「戊」とする。)が確認できるが、各段の「詞書」の中に、これらの筆跡が混在して構成されているものが多く見られることから考えて、後世の補修の際に「詞書」の破損部分を切断し、新たに料紙を加えて写筆するか、他の縁起を貼り合わせて記述したため生じたものと考えられる。
(単位はミリ)
*この表は『千葉妙見大縁起絵巻』の現状のデータである。
*「詞書」の筆者については、前述松原先生の調査結果に基づくものである。
*番号は1紙、1文節ごとにつけた。
*種別は「絵」及び筆者名とする。
五人の筆者のうち「戊」の筆跡は、延宝六年の奥書と同じであることから、「戊」はこの時の筆者であり、「乙」の筆跡には錯款によるものと思われる誤写や誤字が多く見られることから、「乙」は縁起絵巻の完成以後に行われた補修の際の筆者である可能性が大きい。
また、「丁」の筆跡は、「下総州千葉庄池田郷北斗山金剛授寺 妙見大縁起供分福寿坊四位尊栄 寄進本庄伊豆守胤村」と書かれている奥書と同筆であることから、この筆跡の詞書は胤村が「丁」に命じて、『千葉妙見大縁起絵巻』とは別の「縁起」を作成させ、尊光院の供分福寿坊に常住していた尊栄に寄進したものが、後に「絵巻」に混入したものと思われる。
この縁起の制作時期については年代が書かれていないため特定をすることができないが、料紙の劣化の状況から判断して『千葉妙見大縁起絵巻』の「詞書」の制作と同時期であろう。
このため、大縁起絵巻の制作当初に「詞書」を書いた筆者は五人のうち「甲」、「丙」、の二人であることがわかる。
「甲」の筆跡は縁起の上巻の題と「詞書」のほとんどの段に登場する(「甲」の筆跡がない段においても「乙」の筆跡の中にはもともと「甲」の筆跡である可能性が高い)。また、「丙」の筆跡は上巻は十一段に十九行、下巻は十一段(「別表②」)の詞書に確認することができ、内容は妙見堂の建立と遷宮の儀式の記事が中心である。
このことから、『千葉妙見大縁起絵巻』の「詞書」は、「甲」によって書かれ、これに天文十九年(一五五〇)、「丙」が尊光院の妙見堂建立と遷宮の儀式の記事等を加えて完成したものと考えることが最も妥当である。
「甲」がこの「詞書」を書いた時期については、年代が不明のため特定することができないが、「乙」による奥書によって「甲」が享禄元年に「詞書」を制作したか、もしくはすでに完成されていた「詞書」を写した可能性があるため、享禄元年から天文十九年までの間であると思われる。
なお、この絵巻の「絵」の描かれた時期については、延宝六年以前の「絵」がすべて破棄されているため年代を特定することは困難であるが、すでに製作されていた「詞書」に妙見堂建立と遷宮の儀式等の有様を詳細に加筆した天文十九年の可能性が最も高いと思われる。
