『千葉妙見大縁起絵巻』の「詞書」の作成は、前述のとおり「乙」による奥書によって享禄元年もしくは享禄元年から天文十九年までの間と推定できる。
この時代、本庄伊豆守胤村が「詞書」を製作したことを示す他の資料は見つかっていないが、永正十四年に千葉介勝胤の宿老であった原胤隆の居城、小弓城が上総国の武田信保や足利義明に奪われ、義明が小弓城に入城して(小弓公方と称した。)勢力を振るい始める14と、勝胤は古河公方足利高基とともに義明と対抗して下総国内の諸豪族の再編と寺社の建立や寄進15などの宗教政策をすすめている。
「詞書」の作成は、この宗教政策の一環として千葉氏の精神的な支柱であった妙見信仰の普及のため尊光院の院内警護の武士であった本庄伊豆守胤村によって制作されたことは十分に考えられることである。
しかし、この縁起絵巻は、下巻の最後の「詞書」に「為未来亀鏡具注置申候哉」と書かれているように千葉氏の守護神であった「千葉妙見」の由来・霊験や天文十九年の妙見堂建立と遷宮の儀式などの記事を未来の亀鏡にするために製作したものであることからみて当初の「詞書」に妙見堂建立などの記事と「絵」を加えて最終的に完成されたものであると思われる。
これは、この『千葉妙見大縁起絵巻』の制作目的が、「詞書」の内容を理解できる特定の僧職者や知識人だけではなく、「絵」の展開によって一般の武士や民衆に至るまで広く妙見信仰を普及する事や妙見堂の建立の経過・遷宮の儀式などの有様を後世に伝える必要があったからである。
それでは、この時期、妙見信仰の普及と妙見堂の建立の経過・遷宮の儀式などの有様を後世に伝えなければならない理由について簡単に述べていきたい。
千葉氏は、桓武天皇の系統を持つ武士団で、古代末期から中世にかけて、千葉市の大椎城や千葉城、佐倉市の本佐倉城などを拠点にして下総国を中心に勢力を振るったが、一族の団結の精神的支柱となったものが「妙見信仰」であった。
「妙見」は北の空の星(北極星や北斗七星)を神格化したもので、中国大陸の遊牧民族や海浜の魚猟民族などの族神であり、後に道教や仏教と習合した16。
この信仰は大陸の帰化人系遊牧民族の渡来や仏教の伝来とともに国内に広がったものであるが、関東地方の妙見信仰は、近畿地方に住んでいた帰化人の関東地方移住や布教僧よりもたらされたと思われる。
地方に下った皇族の末裔である千葉氏が「妙見」を一族の守護神として信奉するようになったのは北斗七星の中の破軍星17が戦勝をもたらすものであると信じられていたことや関東一帯の在地豪族や住民に、この信仰が深く信仰されていたためであるといわれている。
また、この時期については明確ではないが、千葉氏の惣領制が成立した平安時代末期頃と思われる。
千葉氏の信奉した「千葉妙見」は、「源平闘諍録と研究」(山下宏明編著)に「天照大神三種神器同居国王護代々御門……自将門以来嫡々相伝寝殿内奉安置……」と書かれており、天皇家の「三種神器」と同様に本宗家の「当主のしるし」として代々千葉氏当主の居城内に安置されていた18。
千葉常重が大治元年(一一二六)千葉城を築城し、大椎城から移った際、「千葉妙見」は千葉城内の妙見堂に安置され、「妙見」に関する祭祈を司るため別当寺として北斗山金剛授寺尊光院(現在の千葉神社)が再建された19。
この寺は、一条院の勅願により建立されたと伝えられる真言宗の寺院で、寺の最高位である座主職は代々千葉氏の本宗家が継承した20。
千葉氏は「妙見信仰」を精神的な支柱として強く団結していたが、南北朝や室町時代になると一族が分立して本宗の勢力が衰退していった。
千葉氏本宗の一族に対する統制力は、鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉氏との争いから関東が争乱に巻き込まれるとさらに弱くなったが、永享の乱により滅亡した持氏の子成氏が関東に復帰した後、上杉氏により下総国の古河に追われて(古河公方と称する。)争いを続けると千葉氏の本宗も二派に分裂して争いとなった。
千葉介胤直は、当初成氏に帰属していたが、やがて上杉方であった重臣の円城寺尚任を支持した。このため、古河公方方の重臣原胤房は康正元年(一四五五)千葉城を攻撃して落城させた21。
胤直やその一族は、多古城や志摩城に逃れたが、「千葉妙見」は、尊光院座主覚実によって同院住持の客殿に移された22。
この後、同年八月、馬加康胤が胤直やその子胤宣を滅ぼして千葉氏の本宗の家督を継承した23にもかかわらず、「千葉妙見」は住持の客殿に留め置かれた。そして、応仁元年、客殿が火災24にあうと同地内の仮屋に移された25。
さて、康正元年に起こった千葉氏の内紛は胤直が滅亡した後、千葉氏の一族であった東常緑が美濃の兵を率いて下総に下向すると、十数年に渡って両派に分かれて続けられたが、康胤の孫、孝胤の代になって国内の統一に成功した。
孝胤は下総国内の統一に成功すると本拠を本佐倉城に移した26が、「千葉妙見」は尊光院から移されることはなかった。
このため、千葉氏の本宗家は元服の度に佐倉から尊光院に出向しなければならなかった27。
「妙見」が、佐倉に遷座されなかった理由は千葉氏の支流であった馬加氏による千葉氏本宗家の継承と「千葉妙見」の遷座を下総国内の千葉氏系豪族が強く反発したためであろうと思われる。
孝胤の代に下総国内の統一に成功した千葉氏も、永正年代に、宿老であった原胤隆と上総国の豪族武田信保の間で争いがおこり、古河公方足利高基の弟義明によって胤隆の居城小弓城が落城すると、一族の中に動揺が起こった28。
勝胤や嫡子昌胤は、この危機を克服するため下総国内の寺社の建立や妙見信仰の普及などの宗教政策や国内の豪族の再編に着手した。『千葉妙見大縁起絵巻』の「詞書」の制作はこの宗教政策の一環であったと思われる。
千葉氏は、天文七年に第一次国府台の合戦で小弓公方足利義明が北条氏綱に敗れて滅亡する29と一時勢力を回復した。また、原氏も小弓城に復帰することができた。
しかし、やがて第一次国府台の合戦で敗退した安房国の里見氏が再び勢力を盛り返して北進する機会を窺いはじめる30と再び危機が訪れた。
天文十五年昌胤が没すると嫡子利胤が家督を継承したが、下総国内の諸豪族に対する統制力は十分ではなく31、里見氏に対抗する千葉氏一族の力は脆弱であった。
妙見堂建立は、この状況を打開するため千葉氏一族の共通した祭神であった妙見信仰の普及と下総国内の千葉氏一族の統制、再編成の一環であったと思われる。
妙見堂の建設は天文十六年に着手され32、天文十九年に完成された33が、『千学集抜粋』によると建立に使われた材木は原胤清や嫡子胤貞をはじめ中山、牛尾などの原氏一族や下総の諸豪族が負担しており34、また、遷宮の儀式には尊光院の大檀那であった千葉介親胤以下下総の豪族のほとんどが列席したもの35と思われる。
『千葉妙見大縁起絵巻』は、このような状況のもとで、妙見信仰の普及のために先に作成されていた「詞書」に妙見堂建立と遷宮の儀式の記事や「絵」を加えて完成されたものであろう。

