二、画工片山三清守長

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 さて、奥書の「画工・狩野探幽法印弟子・片山三清守長」とは、どんな人物なのであろうか。画工は絵師と同義。探幽の弟子であり、狩野派の絵師であることだけは記述からも知られる。が、木挽町狩野家第八代の伊川院栄信(いせんいんながのぶ)(一七七五-一八二八)の二男・朝岡興禎(おきさだ)(一八〇〇-五六)が編み、浩翰をもって鳴る『古画備考』にもその名は見出せなかった。むろん、他の画家辞典の類にも記述がない。そこで、あるいは、同時代で同姓の片山尚景(一六二八-一七一七)に関連ある画家かとも考えて、その周辺を調べてみることにした。尚景は京都の人。狩野尚信(なおのぶ)(一六〇七-五〇)の門人で、平戸の松浦肥前守鎮信(しげのぶ)(一六二二-一七〇三)に画をもって仕えた。致仕後、京にもどり画事に専念、宝永二年(一七〇五)七十八歳で法橋に叙せられ、同六年(一七〇九)、新造内裏の障壁画制作には八十二歳の高齢で参加した。子孫は代々平戸藩に仕えている。幸いなことに、平戸市の松浦史料博物館所蔵の「片山尚栄先祖書」(一冊)という文書に「三清」の名を見出すことができた。

 この「片山尚栄先祖書注3」の中に収録されるいくつかの文書のうちに「片山氏系譜摘要」がある。それによれば、片山氏の先祖は新羅三郎源義光(一〇四五-一一二七)の後裔で、代々弥兵衛を名乗る武士であった。丹後の三村を領地としたことから一時三村と改姓する。北条氏綱(一四八六-一五四一)の麾下で、足利義明との合戦で軍功のあった法祐(?-一五九〇)、備前・佐渡などを渡り歩き、晩年は京に住んだ立賢(一五二〇-一六〇七)などがあったが、その子・立徳(生没年不詳)は少々変わり種であった。剃髪して医者となった立徳は、連歌をよくし、狩野光信(永徳の長男・一五六五-一六〇八)に絵を学んだ。立徳の時に片山姓に復している。つぎの隆也正信(一六〇一-七五)は、幼少から資質豊かで、狩野興以(こうい)(光信の高弟・?-一六三六)に学んで画才を発揮した。隆也の絵に魅せられた松平越中守定綱(一五九二-一六五一)は、しばしば隆也を召し抱えようとしたが拒まれ、ついに、徳川家康の御用絵師であった狩野徳庵正信の猶子に仕立て上げ注4、家臣とした。しかし、隆也は禄仕をきらい、辞して京へ帰り、片山氏に復した。時に京都所司代であった板倉内膳正重矩(一六一七-七三)は、隆也を引見してことのほか気に入り、彼の外孫二人のうち、長男常富(後に小山雲八と号す)を板倉隠岐守重常(一六四三-八八)に仕えさせ、次男の三清をみずからの家臣に取り立てたという。三清についての記述はわずかにこれだけだが、他にまったく史料のない現在においてはまことに貴重な記録といえよう。隆也の子が前述の片山尚景である。つまり、片山三清は片山隆也の外孫で、片山尚景の甥にあたる人物ということが判明した。しかも、板倉家との関係がこの史料によって裏付けられたのである。


[図]

 『寛政重修諸家譜』(巻第八十二)によれば、板倉重矩は寛文八年(一六六八)五月十六日注5に京都所司代に任命され、その年の十二月六日に入京、同十年(一六七〇)七月注6に帰府を命じられ、十一月三日江戸着、もとの老中職に復したという。とすれば、片山三清が板倉重矩の家臣となったのは、おそらく寛文九年か十年ということになろう。当時祖父の隆也が六十九歳か七十歳だから、三清はすでに二十歳前後に達していたろうか。むろん、祖父や叔父から画法の伝授は受けていたものと思われる。三清を江戸へ連れ帰った重矩は、鍛冶橋狩野家の当主で、法印の位に昇り、奥絵師の総帥的な地位にあった狩野探幽に入門させた。探幽の晩年、六十八、九歳のころである。探幽の諱(いみな)「守信」の一字をもらって三清守長と名乗ったのも老中重矩の推挙あってのことであろう。

 「千葉妙見大縁起絵巻」の修補改装が行なわれた延宝六年には、板倉重矩はすでにこの世になく、重種(一六四一-一七〇五)の代になっていた。興味深いことは、この重種が絵巻の改装を企てた板倉重直とは、叔父甥の間柄であるばかりでなく、一時、義理の父子の関係にあったことである。重矩の次男として生れた重種は、十代後半に叔父重直の養子となり、長兄重良(一六三八-九七)が病身ゆえに嫡を廃せられたために、寛文十二年(一六七二)九月二十八日、家に帰って重矩の嗣となった。十数年間の父子関係は二人の間に強い絆を形成したことであろう。役職を下りた六十二歳の叔父重直が企てた、領内の栄福寺に伝来する絵巻の改装という善根を、当時寺社奉行として江戸にあった重種が、家臣の片山三清を派遣して助成したと考えられるのである。