
歴史知(れきしし)られず
民(たみ)の身(み)がわり
善右エ門(ぜんうえもん)
善右衛門は下総に高五千石を領有した旗本戸田大学の家老でしたが、
天保七年(一八三六)年貢高をあげるため間竿を変えての測量しなおしに賛成し、
またその責任者として千葉郡の知行所に出張しました。
しかし日がたつにつれ、農民の負担増を考え、自分のしている事に自信を失いかけていました。
また測量に反対する農民は川井村の明神山に集まり一揆を起こす準備をしたため、
善右衛門は「田地の測量を強行すればお家は一時安泰となるも、百姓はますます疲れ果て、
ついには騒ぎとなり政治は乱れるだろう」と考え、事業の中止を願いでる遺書を主君あてに書き自害しました。
善右衛門の死によって測量は中止され、百姓の難儀が救われました。その墓は最福寺にあります。