き 吉右衛門 恵の里開く 穴川の野

かるた絵札

吉右衛門(きちうえもん)

恵(めぐみ)の里開(さとひら)く

穴川(あながわ)の野(の)

 

江戸時代には全国各地で新田開発が行われましたが、そうした開発につきものは秣場をめぐる争いです。

当時の農業にとって大事な秣場は、入会地となっていることが多くそれだけに争いもはげしかったようです。

穴川野もそうした争いの場になったところですが、農業発展にはぜひとも開発の必要がありました。

都賀村出身の田村吉右衛門は、文政七年(一八二四年)から穴川二百町歩の開発に生涯をささげたのです。

入会地の争いもさることながら開墾の困難さは想像以上であったらしく、収穫の不安定、開墾者の逃亡などの困難を打破してようやく成功し、

そのため多くの人が餓死を免れたともいわれています。