ち 血をみたが 庄八どんは負けて勝ち

かるた絵札

血(ち)をみたが

庄八(しょうはち)どんは負(ま)けて勝(か)ち


 篠崎庄八は文政年間、村田村の名主となり、新田開発、村田川の改修、漁業権を護る等村政に偉大な功績を残された方であります。

 文政6年(1823)、田畠の肥料となるキシヤゴを八幡(やわた)浦漁民が越境して採りに来たので村田、浜野の漁民との間に争いが起こりました。これを知った村田、浜野の両名主がその筋に訴え、結果は八幡方の違法となって、一件落着しようとしたところ、八幡方漁民6、70名が村田名主と北生実名主を打殺せと襲いかかってきました。

 ここにおいて北生実、浜野名主と村田漁民が承知せず再び訴え出ました。ところが庄八は自分の身に瀕死の重傷を負いながらも、八幡方をとがめないのが円満解決への道であると自分の方の名主や漁民を説得して円満解決に導きました。

 昭和になり海苔景気のよい頃、村民は神明神社(しんめいじんじゃ)境内に頌徳碑を建てました。