原本へ
江戸ヨリ到来の書状を借ツて
うつし取候
異国船日本江渡海噂噺
嘉永六年癸丑七月中旬
原本へ
夷国船日本江渡海噂咄一件
一当六月三日浦賀湊江着船仕同十三日出帆其間
下ゞ口ゞ取ゞニ咄ス様子見聞仕候處亜弗利加(アブリカ)国之内
イギリス船ニ相違無之由尤此国女帝ト承り申候
阿蘭陀船を離レ諸品直交易之儀願参り候噂
或は小笠原嶌を申受度願とも承り又ハ佐渡ケ嶋
壱岐對馬八丈豆州七嶋之内とも或は将軍様の
娘(ムスメ)を申受度願参り候ともいろいろ口ゞ取ゞ故真実
之儀は御老中衆歟又ハ大名衆ならでハ分り不申
浦賀奉行ニても願書箱取次迄之事ゆへ分り不申由
承り候然ル處家康公御治国後万国交易船は
ヲランダ(紅毛)船江御免有之場所は肥前の国長崎湊ニ限り
候よし万国江阿蘭陀船を以廻状相廻り居候由若
万国之者心得違ニて日本江直交易抔ニ渡海致候に
原本へ
おゐてハ無用捨打離(ハナ)スト廻状相廻り居候由承り候然ル所
比度房総(上下)武蔵相模五ケ国海岸五十里余之間江
諸大名之箇(カタ)メ大筒スハト申事あらバ火縄をさし付ル
斗リニて勢唾(カタヅ)を呑んで構(カマ)へたり家康公国法を
定メ万国江御触之通リなれバ夷国願之善悪ニ不寄
無用捨打放スベく之所其沙汰もなく唐人帰帆も
慥成儀わかり兼併し跡ニて万国五界之画圖面を拝
見致し只今イキリス万国を降参させ申候国々之
様子米穀出来の様子日本之産物自由自在ニ
取扱様子委細承り申候所中々以小嶋壱ツ弐ツ位之
好ミには無之様子夫々引競(ヒキクラベ)咄の様子愚意仕候處
先当御国ニても実々困り入申候様子願ヒとは違ひ
まづまづ秀吉公より巳来(コノカタ)の儀を引出し日本諸
廻船難風にて夷国江吹流レ異国船のために助命
原本へ
致事数しれず然ル所昨年歟一昨年豆州歟房州
先キまでイキリスの漁船日本人を弐人助ケ日本江
渡シ参り候處豆州御代官江川太郎左衛門異国船江
挨拶ニは長崎ニ受取候よふニ返答致し候へは漁船の唐人
眼(マナコ)をいからせ立腹いたす様子にて船を沖に出(井ダ)し
てんま船のよふなる小船弐艘江日本人壱人ヅツ
乗せ房州之先江上陸致スまで見送り慥二陸江上り候を
見届ケ右漁船帰帆いたし候事も有之候右之
異国船てんま船ハいまだ浦賀に有之由承り申候
一此度唐人願書噂咄之趣は日本ハ神国にして
米穀は勿論仁義を守り諸事万事政事
行届キ太平五界万国に増れりト承り候然ル處
売船沖合ニて難風に逢異国江漂流いたし助命
仕大切ニ取噯慥二相届ケ候處受取方甚以其意
原本へ
得ず上江立役人らしき者挨拶がら神国仁義ハ
咄に承り候様子とは大キニ相違いたし假令(タトヘ)下々水主
たり共人間壱人重く取扱にハたとヘるニ物なし
然ル所先年助命仕候日本人相渡時の受取方
道具諸品之扱方又は塵(チリ)ほこりも様子(同様)実々其意(ソノ井)
得ず王命公命ハいかなる訳ケ哉承リたく直(ジキ)々
龍眼(リュウガン)を拝し度取次キ相願い候ト使船の頭願書
小細(コサ井)ハ此中(ウチ)に有之ト申差出し候由承リいづれも
困り入兎角返答ハ八月までト申無理無躰ニ返シ
候よし承り申候使船の頭奏問(モウシヨウ)イギリス王命を
受ケ渡海いたし候間是悲是悲返答承り度當湊に
滞船致シ候事不苦候得ども御国ものさわがしく
候段恐入候間沖合迄引取八月ハ御返事承り其うヘ
帰国致シ度由申事共承り申候
原本へ
日本返答の様子ニ寄り恥を与(アテ)がひて其虚(キヨ)を定ム
ベく事鶏(ニハトリ)のケヤイなれバ蹴込(ケコマ)んとする異国の
仕方(シカタ)ト相見へ申候其昔(センネン)甲越の合戦も頂天(アタマ)から
たたき合候ものニは非らず村上義清より事始り
廿余年懸り初メハ文通の取遣り終果(シマ井)ハ河中嶋
の合せんとなり近(ゴウ)州賎(シヅ)ケ嶽も清須(キヨス)大評定より
発レリ藤吉郎に恥を当テ候ゆへ藤吉下地腹の
ある所へ勝家の仕方振舞悪敷キゆへなり
此度イギリス日本江手懸りハ助命の日本人を
麁まつニ取曖候所を附ケ込ミ其廉(ソノカド)を以公命不埒
とも申立日本の国王ハイギリスニて守護致ス共
申立テ如何成事をか巧(タク)ミ出し日本江手懸り斗り
心懸ケ候よふす見聞仕候色々身を入レて聞合候らへ共
御上様にても極々困り入候事哉実の咄シハいづれとも
原本へ
分り不申候
鐘馗ハ車船ノ名也
ショウキ船四艘(ハ井)のんだりや。うかされて
夜もねられす昼も寝られず
一當御代異国船渡海三度のよし
一出火西御丸二度本丸壱度無替大切なる
御寶蔵壱ッ〆四度
一米両ニ壱石之余しらず飢饉(キキン)二度のよし
御老中ハ水野越前守様水戸御名君引籠り
此節御再勤のよし承り申候
一水戸より大筒三十六挺(カラ)此間曳来り候壱から地車ニて
十二人引
一御城不思議の噂咄筆紙ニ申尽かたく候愚老登(ノボ)り候うヘ
御咄し可申上候
一内々噂咄シ御小児長吉郎様此廿日御他界のよし
原本へ
廿一日ニ親王御他界之由尤当六月差入ヨリ御病気
御大切ニ相成異国船帰帆の頃少し宜敷方十八日頃より
悪敷相成廿一日ト申事御座候
一西之丸様ハ大癇(カン)生(症)ニ而てんかんニ而御用ニは不相成
よし何レ御用は御三家御三卿之由承り申候先ッ
此姿ニ而はいづれ六ケ敷時節ト申事ニ御座候即万国ヲ
イギリス切り取候を承り候丈ケ有増左ニ
五界万国図
原本へ
……此印ハイギリス船の道なり六丁壱里ニして三千里計の由
日本の道に直して六七百里の事ト相見へ申候
△印ハ不残イギリスニ降参の国此三角印ニ日本御引合せ
可被下候恐シそふな事ニ御座候丸クするとイギリス之地は
日本の地下ニなる
車付キ船の名称鬼船ト申名なり 鐘馗(ショウキ)
漸七月朔日此度全くの異国使船根元実説相操(サグリ)り
悉く承り候所北アメリカ軍船ニ相違無之願之趣ハ
米直交易ニ相違無之異国も含あつて願参り候趣
和国にも欠ケ引国法あつて承引不仕趣其儀は筆紙ニ
申尽かたく登り節御咄可申上候
諸人知る所惣而文字経文ハ申ニ不及暦極上。細工もの
飛道具之類此度之車船不残異国の方本元夫レヲ
何ニよらず弁利能キよふニ通路いたし候物も有之油断ハ
原本へ
毛頭とも九牛壱毛程も不相成時節のよふニ見聞仕候
一趣キは前書并圖面の様なれ共全クは北アメリカ国
より願参り候由右北アメリカ国は万国中ニ而三分一
有之国ト承り申候
一北亜墨利加(アメリカ)国ハ三十壱ヶ国ニ相成居候よし申にも至而
小国トいヘ共日本を三ッ寄候ほどニ而一ケ国のよし大国ト
云つてハ日本ヲ或は五ッ七ッ十ヲ位もよせ候程有之儀
聞取り申候
先ッ此度渡海いたし候国名はキヨウガセイの地日本
三ッがけ之国のよし右国王の居所はハシンドン是は
都の名此度乗船いたし候湊の名はカルコルニヤト
申所使者の名将官ハブカナント申右国王の命を
うけて渡海のよし
一先年大日本江渡海仕候ニは早都合ニ而も二年三年も
原本へ
海上に居候由それを唐人共色々工風して
此度之渡海ハアメリカ之地を当年三月十三日に
出帆浦賀江六月三日着船是ニハ成程尤ト申程ノ
御咄し御座候麦ハ出来ル国先ツ咄しの様子ニ而は寒国
なり凌(シノグ)ト申ス字ハ氷の心ある遍(ヘン)がン(ニス井)なり氷の
中に育ものハ麦なり物を能く凌国ト見へたり
凌ぐハ辛抱(シンボウ)の強(ツヨ)イ事物事にあきて捨ヌ事ゆヘ
三度が四度願参リいよいよ時節陽気をうかがひ
氷の解るを待て麦も目を出すト願参り候ハ麦の
種を蒔くよふニ思ひ弥々願ひ叶ぬときハコウコウト
含ミあるよふニ承り候余は書取かたく登り之御事ニ御座候
草陰て
木下で嗚呼(アヽ)歯がいヽと猿がなき
原本へ
南北のアメリカ国を合セみれバ三分一ニ当ル
一此度北アメリカ国キヨウガセイ之地近辺ニ而日本
里数にして三十里程切割其三十里之間ニ箱
根山ほどなる大石山四ツ程有之夫を取り拂ひ
日本江渡海通用宜敷よふニいたし候由唐人
申之よし仍而二年三年かヽり候所を日数七十日計
ニて渡海いたし候様相成候由承り候尤切割ハ日本
通用計りニ無之南北アメリカ通用之為ニも宜敷由
承り候
一北アメリカ三拾壱ケ国ニ割レ其内ニ惣元締と申所も
無之よし皆同格大王三十壱人有之由近国内ハ
固(チナミ)を結(ムス)ビ音信取遣り付合ハいたし居候由承り候
先只今ニ而ハ軍もなく治国のよし聞取申候仍而
軍船不用に付右船を以日本を生責(セセリ)に参り候
原本へ
ものト相見へ申候其儀は大閣秀吉公日本を治メ
朝鮮伐罪(セイバイ)(征伐)既(スデ)に是なりト引くらべ愚意仕候
右前後の所ハ聞取次第相認メ候間御用捨可被成候
いまだ六ケ敷事ト相見へ追々御レキレキ御大名并ニ
御勘定御奉行衆御目付衆其外之御役人衆海岸
御巡見有之江戸鉄砲州二丁目より拾軒丁通リ
向フハ佃(ツクタ)嶋之前後御ノロセ場所築立御臺場出来
仕候よし大急キニは無之候得共御触ハ有之候右御堅(カタ)メ
御大名様ハ四国阿和(波)様ニ御座候須(洲)先弁天辺ニも
出来仕候由承り候余ハ登り候せつ御咄可申上候いまだ
其噂不堪候(絶ズ歟)