藩政時代の町方と村方に分けた行政の区分は、明治維新後たびたび変って、現在の市町村が成立をみるようになる。
明治四年に廃藩置県になると、若松県は五七区に分けられ、同六年には四大区(郡=大区)・九六小区に分けられた。郡名や村の名称はそれまでのとおりであったが、同八年から十年頃にかけては、藩政時代のいくつかの村が合併して、新しい名の村がつくられ、後には更に合併(編入)を重ねて現在に至るようになった。
明治十年、明治以前の区画である、町分の石堂分・赤岡分・千石町分の一部・石上分の一部がまとめられて石堂村となったのをはじめ、一本木分・達磨分・石上分の一部を併せた地域と、高久組の藤室村・上荒久田村を併せた、三町分二ヵ村がまとまって藤室村ができた(明10・1・20)。
それより前明治八年には、高久組の平沢村と中地村が合併して中沢村となり(明8・8・12)、下荒久田村・中明・鈴木新田(新村)の三ヵ村は始村をつくった(明8・8・12)。
後に町北村になる区域は、明治十年には右のように石堂村・藤室村・中沢村・始村の四ヵ村に分かれていた。これらの村名は、石堂・藤室のように一村の名をそのままとったものと、中沢のように、二村の文字を共に用いた村名もある。しかし、始村のように、それぞれの村名には全く関係なく、新たにつくった村名もある。三ヵ村合併してはじめて一村を起した「始まり」の意味があるのかも知れないが、定かではない。
この四ヵ村の北辺隣接にあった村々と合併して、栄和村が誕生したのは、明治二十二年四月一日であったが、明治二十六年六月三日、二つの村に分離して「高野村」と「町北村」となった。町北村は、若松町の北に接している村なので、その村名となったものであろうが、この町北村は、昭和十二年四月、石堂・上荒久田・藤室の一部が若松市に編入となったが、このときは若松市と北会津郡町北村の境界変更によるものであった。しかし、同二十六年には、わずか四八年間であったが、目まぐるしく移り変った「町北村」の名は消え、若松市の「町北町」として生れ変った。