後に町北村となった地域は、藩政時代の髙久組の村と、町分といわれた村からできていたことについては、前に述べたとおりであるが、町分でも城下の町端に続く所に居住している者もおり、むしろ町方(まちかた)のような生活ぶりが見受けられるが、町分とて年貢地には変りがなく、赤岡分を例にとってみれば、文禄三年(一五九四)の赤岡村の検地帳では、赤岡分の耕作者は約一〇〇人ほどで、耕作面積は一町歩(一ヘクタール)が一人で、ほとんど三反(およそ三〇アール)以下が多く、中には一畝(およそ一アール)にも満たない者もいたのをみると、町方あるいはその隣接地に住居をもち、兼業の出作(でづくり)を行っていた者が多かったと思われる。このような町分と村方両者を区域とする村々について、その成り立ちや、古くからの伝承などを次に述べてみよう。