現高野町は、会津若松市の北西部にあり、会津若松市に合併される以前は、北会津郡高野村である。
中沼、上高野、柳川、界沢、木流の五大字より成り、会津盆地の中央、阿賀川(大川)の東岸に位置し、東は一箕町(旧一箕村)と、河沼郡河東町(旧日橋村)に、西は湯川を境に神指町(旧神指村)と、南は町北町(旧町北村)に、北東部は河沼郡河東町(旧堂島村)に、北西部は同郡湯川村(旧笈川村)と境を接す。湯川、溷(せせなぎ)川両河川により地勢を二分され、東部は若干高地であるが、西部、南部、北部は低地である。
この高野の地名は、中世の南北朝期に会津郡のうちとして、康暦三年(一三八一)五月二十七日の禅尼浄仙寄進状(実相寺文書)に見える。「門田クワウヤ(高野)の内、ウタガワの九郎の跡、毎年得分拾貫文之所云々」とあり、当時を黒川の実相寺に寄進している。
近世には、上高野、下高野の二村が見え、会津地方中部、現在の会津若松市高野町大字上高野、柳川のあたりに想定される。
藩政時代は、陸奥国会津郡高久組に属し、『新編会津風土記』によれば、「村里広平の地にあり、黒川、鶴沼、田地を潤し、五穀乏しからず、されど洪水の患(わずら)いあり」とある。
村落の周辺は田圃に囲まれ、藩政期より稲作を主体としてきた村々で、藩もまた新田の開発、奨励を施策としてきた。
藩政期における各村の村高(村々に賦課した年貢米の石高)を別表に掲げる。
藩政時代の高久組の構成は、旧高久村他三十ヵ村に分かれ、高久組上と高久組下とに大別されていた。
高久組上は高久村、横沼村、神指村等十三ヵ村、高久組下は平沢村、中地村、界沢村等十七ヵ村で構成されていた。
明治維新後廃藩置県となり、同十二年には郡役所を置き、戸長役場制度等を経て、明治二十二年町村制が施行され、高久組上十三ヵ村を合併して、北会津郡神指村となり、高久組下は十七ヵ村を合併して、北会津郡栄和村と称した。然し明治二十四年頃より村内は極度に乱れ、村議会は二派(南派=後の町北村派、北派=後の高野村派)に分かれて相争い、ことごとく対立した。当時の対立理由を例にあげると、
1 南北二分しての勢力争い(明24、7)
2 村議補選に於ける紛争 (明24、11)
3 村長選出に対する対立 (明24、12)
(明治24年刊 週報「会津」より)
等の紛争をくり返し、村議辞表を提出するなど、反目抗争の溝は深く、明治二十六年六月遂に南北二村に分裂して、栄和村は消滅した。
分裂後、栄和村の始、中沢、石堂、藤室、上荒久田の五大字をもって町北村が生まれ、中沼、上高野、柳川、木流、界沢の五大字をもって高野村が創設された。
新村創設にあたり中世の史実に基づき、村の名称に高野の名を冠して、高野村としたものと考えられる。
高野村の役場は上高野に、小学校は町北・高野の学校組合を作り、上高野に設置し、再び相争わざることを願って、校名を「永和」と名づけ現在に至っている。
高野村創設後も、稲作立村の基本は変らず、米の単作地帯であり、気象条件、土質等が稲作に適していることから、明治三十三年「耕地整理法」制定と同時に、柳川地区が県下に先がけて、圃場の整理を実施した。
また戦後米の増産奨励の一端として、米作福島県競作会(個人の部)に、昭和二十四年伊藤光雄(上高野)昭和二十六年関本重(沼木)の両氏が県下一位に輝いている。
近年まで大雨の都度、河川の氾濫に悩まされて来た田圃も、その後河川の改修が進み、湯川、溷(せせなぎ)川の災害も減り、戸ノ口、日橋両堰の水利も改良されて、会津の穀倉地帯として良質米を産出している。
昭和三十年一月一日若松市と合併して、会津若松市となり各大字は、高野町を冠称し、今日に存続されている。
旧高野村の戸数・人口(角川地名事典)
明治四〇年 二七〇戸 二、二七九人
大正 九年 三〇五戸 二、〇八三人
昭和二二年 三五五戸 二、三八四人