世は貞観の頃、後に左大臣になった源融(みなもとのとおる)は陸奥国出羽の按察使(あぜち)に任じられて東(あずま)に下り、福島の信夫文字摺にちなむ歌というのが河原左大臣の名で、小倉百人一首の中に加えられている。
みちのくの忍ぶ文字ずり誰ゆえに
乱れ染めにし我ならなくに
さて、この大臣に仕えていた人に、秦氏という人がいた。彼には何かわけがあって、安住の地を求めて越後路より会津の地にやってきたが、心に染むところがなかった。そこで日頃信心している山王権現に祈願した。すると一人の老人が現われ、北の方を指さして、「これより先に、異香の樹がある。その地こそ、汝が求めている安住の土地である。行って邑(むら)を開くべし。」というや、忽然として姿を消した。そこで秦氏は、老人の指さした地に来てみると、果せるかな中国の物語に出てくるような芳香を放つ樹があった。秦氏は神の導きに深く感じ入り、山王社を建立し田畑をおこし、村を拓いた。これが神指村の創始であるが、古くは「神差」「香指」などの文字が当てられていた。
神指村の村高は、文禄三年(一五九四)の『蒲生高目録』によると千百四十二石余とある。
慶長初年、村内の真言宗寺院極楽寺が火災にあい、同五年(一六〇〇)には上杉景勝、直江兼続を総奉行に任じて神指原に築城を行ない、会津をはじめ越後・仙道・米沢の領民十二万余を動員したが、この城は完成をみなかった。
寛永二年(一六二五)には、端村として榎田新田や横沼ができた。
江戸期には高久組に属し、正保三年(一六四六)、村内は上神指・東神指・下神指の三区に分けられ、化政期における戸数は、上神指が二十八戸、東神指が二十七戸、下神指十七戸、榎田新田十七戸、横沼三戸であった。文化十五年(一八一八)における村高は、『村日記』によると千二百八十九石余、『天保郷帳』では千三百六十八石余とある。
明治以降になると同八年、上神指、東神指、下神指、横沼の四ヵ村が合併して北四合村と称し、若松県に属した。北四合と称したゆえんは四ヵ村が合併したからであるが、この年、隣村の如来堂・小見・天満・西城戸の四ヵ村、鍛治屋敷・深川・幕内・柳原の四ヵ村も合併しており、それぞれ位置関係から北・中・西を冠して四合村を称した。
さらに明治二十二年、黒川・高瀬・高久・南四合・中四合・北四合の六ヵ村が合併し、それぞれの村名はそのまゝ大字とし、村名には再び神指名が用いられ、村役場は大字高瀬に置かれた。同年における総戸数六四六戸、人口三、四五六人。大正九年における世帯数は六四五、人口四、一三九人。昭和二十二年の世帯数七七四、人口四、九六九人。昭和三十年一月一日若松市ほか六ヵ村と合併して会津若松市となった。旧大字名は神指町を冠称してそのまま大字として存続している。
『福島民報』昭和二十六年四月一日
若松に合併申入れ
神指村の二ツ釜部落で
北会津郡神指村の佐瀬村長らは廿一日、若松市の市当局、市会に対して同村二ツ釜部落の合併を正式に申入れた。村会、市会の可決を経て本決りとなるわけだが、若松市側は耕地をふくめた部落全体(廿二戸)の合併を望んでいるのに対して、神指側では全戸数と耕地十四町歩のうち四町歩のみ合併を望んでいるので、今後この点で交渉を続けることになった。