『新編会津風土記』によると、康暦元年(一三七九)葦名直盛が鎌倉より下向の際、多くの鍛治職人をつれて此処に住しめたので鍛治屋敷と呼ばれるようになったという。そしてこの村の農民治右衛門という者の家には、鍛冶に関する書ということで金屋神という梵字で書かれた巻物が伝えられており、その巻末には伝燈大阿闍梨法印重盛判授者雪下正家伝廻国の時示之、慶長二年(一五九七)神月吉日と書かれていたという。
だが、この当時の鍛治屋敷は天文五年(一五三六)の大洪水以前のことゆえ現在地ではなく、村の西北西大川の中程にあって、北会津二日町と「貰い風呂をし合っていた。」といわれている。もっとも二日町も現在地よりは東にあったのが、天文の水禍により両村ともに東・西の安全地に移転して今日にいたったもので、昔の村位置を古屋敷というようになった。またその頃の鍛冶場跡を地元の人達は鍛冶神と呼んでいる。
大川に蟹川橋が架るのは大正三年の頃でそれ以前は荒井村川崎から東大川中州を通り小見に出ていた。
玄如節
いまだ夕陽が 高久と見ても
早く行きたい坂下まで
深き思いの 横沼超えて
ように忍んだ榎木壇
通って行くには まだ日が高瀬
いくど城戸口開けたやら
柳原越え 深川越えて
忍びあう身の如来堂
幕内にて 小見(おうみ)の鎗を
鍛いあげたる鍛治屋敷
恋の深川 忍んで来たが
姿見せない 幕内