高久(たかく)

76 ~ 77 / 232ページ

 南北朝期からみえる村名である。建武二年(一三三五)十月一日の陸奥国宣に見え、北畠顕家が留守家任に「会津河沼郡高久村伊賀弥太郎跡」を戦功の賞として与えている(県史7)。また高久とは、『和名抄』にある「多具」から転した名という説もある。


高久村中道路(南より)

 村高は文禄三年(一五九四)の『蒲生高目録』によると四一五石余であったという。だが当時の村は現在地より北東約六〇〇メートルの地点にあったという。慶長十八年(一六一三)越後街道が整備され、高久は宿駅として現在地に移され、江戸期には会津藩領高久組に属して栄えた。文化十五年(一八一八)の『村日記』や『天保郷帳』によると八八〇石余、戸数は六四戸であった。『若松県人員録』によると明治四年における戸数は七六戸、人口は四二六人。九年以降は福島県に、十二年からは北会津郡に所属、同二十年の戸数は六十戸、人口四四三人。同二十二年からは神指村の大字、昭和三十年からは神指町を冠称して会津若松市の大字となった。

 宿場時代には道路の中央に川が流れ、その両側には馬をつなぐ柵が設けられ、道の両側には旅籠(はたご)が軒をつらね、村東北の道がカーブする地点には一里塚があった。今も一軒だけ、旅籠時代の看板を残す家がある。

 村東には寛治中の草創と伝える八幡宮が鎮座する。よほど由緒ある社であったとみえて、寛永の頃には、この東南で流鏑馬(やぶさめ)の儀式も行なわれていた。今もその頃の武具や巻物が同社には残されている。


 村西には真言宗の寺院で、高久山真徳寺という寺がある。弘安中の草創と伝え、元和中には蒲生忠郷が鷹狩で訪れたこともある由緒ある寺だが、なぜか本尊は不動明王である。村人に尋ねても、わからないという。境内に祀られた子安地蔵尊は、近年選定された会津地蔵尊二十一霊場の十四番として開眼された。