尼ヶ渕

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 今の会津若松が、黒川の里と呼ばれていたころの話です。つまり葦名家七代の領主、直盛公の時代、葦名家には過ぎたるものが三ツあるといわれておりました。その第一は、鎌倉以北における第一の美女、千穂姫がいること。第二に、葦名家に代々伝わる金の采配。第三に、六十万貫両と称される莫大な知行高があることでありました。

 このなかで、第一に挙げられた千穂姫という人は葦名家の重臣大町左京盛胤の一人娘で、この話のおきた至徳二年(一三八五)には十六歳でありました。そしてこの千穂姫には、直盛公のお小姓をつとめる簗田衛門という、それはそれは、絵に描いたような美男の許嫁がおりました。

 ある日のこと。好色であった領主の直盛公は盛胤に対し、「お前の娘の千穂姫を、側妾に差し出すよう」との仰せでありました。

 盛胤は即答をさけましたが、重い足どりで屋敷に帰って来ますと、このことを姫に話したのであります。すると姫は、血相を変えて「私には簗田様という許嫁があります。お殿様の許に参るくらいなら、いっそ死んだ方がましです」という、固い決心でありました。

 その後直盛公からは、再三にわたる催促がありましたが、盛胤はその都度にいろいろな口実を設けて一日延ばしに返答を延ばしておったのでありますが、そのうちに盛胤は、住吉神社のご神体を受けに鎌倉に行くことになりました。

 盛胤は、千穂姫のことが心掛かりでありましたが、いかにご主君といえども、まさか自分の留守中に無理難題もなさるまいと、鎌倉目指して旅立っていったのであります。

 ところがどうしてどうして、盛胤が旅立つと間もなく、「千穂姫を、戌の下刻(午後九時)までに差し出すように―」という、直盛公直々の使いが、大町家に参ったのであります。

 大町家では、主人が留守中のこととてどうしたらよいものやら、ただもうおろおろするばかり、当の千穂姫も、遂に泣き崩れてしまいました。

 しかし、そうしているうちにも時はたつばかりです。「自分がこの世からいなくなれば、すべては解決する……」と、姫はひそかに死を覚悟すると、その夜家を出たのであります。

 時は秋の半ばでありました。十六夜の月が皎々と照る中を、薄紅梅の槃濃染に金銀の縫箔散らしの小桜模様もゆたかな壺装束姿、綾紺青の垂絹に緋房のついた市女笠をかぶり、紅白だんだら緒の草履をはき、杖をたよりに東山の仙境に向けて歩を運ばせて行きました。

 やがて羽黒川(湯川)の渕にたどりつくと、水垢離をとって身を清め、羽黒山東光寺の奥の院に三七二十一日の間、夜となく昼となく祈願をこめていたのでありますが、その満願の日、夢枕に立った白髪白衣の老人に、「無常の恋を諦めて仏門に入るように……」と諭されたのであります。

 しかし姫は、諦めきれませんでした。「どうせこの世で苦しむよりは、あの世とやらで衛門様を待ちまする」といって、あたら十六の若木の花を無惨にも泡沫無限の渕に投じたのであります。するとその時、羽黒の奥の山合いから五色の雲に乗った軍茶利・妙見・観音の三尊が現われ、み手には一条の羅索を捧げ、眉間からは三筋の光明を放ち、渕の底深く沈もうとしている千穂姫を救い上げると、三尊はかき消すがごとくに姿を消しました。

 このありしさまをまともに見ていた東光寺の別当行智上人は、千穂姫に「色即是空」のことわりを諭されたので、姫はようやく迷いの夢から覚め、自から丈けなす緑の黒髪を切り、上人のみ弟子となってその名も智尚尼と改めて仏門に入ったのであります。

 それからしばらく経った、ある雪の降る夜のことでありました。智尚尼が読経をしていると、み堂の外に簗田衛門が訪ねて来ました。「千穂姫様、どうか仏門に入るのは断念なされ、この衛門の許にお帰り下さいますように―」衛門は血を吐くような思いで繰り返し繰り返し、幾度となくかき口説いたのでありますが、勤経中の智尚尼からは一言の答えも得ることはできませんでした。

 聞こえてくるのはただ振る鈴の音と、読経の声だけでありました。衛門の心は千々に乱れましたが、遂に思いあきらめて泣く泣く山を下ったのは、東の空も白みかけた師走も二十三夜の、引き明けどきでありました。

 それから間もなく、衛門はお城勤めを辞しました。そして、やがて花の便りも聞かれようという春近いころのこと、衛門の旅姿を白河口で見たという人の噂も伝えられましたが、その後の消息はようとして知れませんでした。

 智尚尼は、そのまま尼としての生涯を送りましたが、直盛公の死後は城中の奥殿に勤め、齢七十三でこの世を去ったと伝えられております。

 なお、この千穂姫が身を投じた渕はその後尼ヶ渕と呼ばれるようになり、観光温泉として栄えている東山温泉の、中程のところにあります。

(小島 一男)