・石ヶ森(いしがもり)

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 昔は石盛と書いた。『新編会津風土記』によると、滝沢より北東二十八町ばかりのところに十三丈、周り三町余の山があり、巨石を積みかさねた形状をしているところから、石盛山と呼ばれたが、遠くから眺めると螺髻(かさつぶり)に似ているところから一名螺髻山とも呼ばれた。螺髻というのは会津の方言で蝸牛(かたつむり)のことである。

 昔はおびただしく良金を産し、麓の渓流からも砂金が採れたという。

 最も多く金を産出したのは蒲生秀行の代で、慶長八年(一六三〇)より蒲生忠郷の代にいたる同十五年(一六一〇)までの八ヵ年間に産した高は二百八十八万両にも及び、この山に面して金堀小屋、石盛などの集落が開かれ、小屋数も千七百軒に達したという。だが坑内には湧水があり、採掘が極めて難行したが、松沢伝兵衛という者が水抜きに成功し、同十六年(一六一一)より元和六年(一六二〇)までの十ヵ年の間にまたまた七十二万五百両を得、先のと合せると三百六十万五百両、これが蒲生氏二代の間に産出した金の総額であった。

 これが加藤氏の代にいたって前後六百四十万八千三十三両に達し、寛永二十年(一六四三)保科正之の入封後万治元年(一六五八)まで十六ヵ年間に一万六千四百三十八両二分、吹金三十八貫四百八十一文目を産し、その後漸次衰退したが、それでも寛文(一六六一-七三)の頃まではなお五十六軒があり、男女二百余人が住んでいた。寛文四年(一六六四)江戸より道喜という者が来て再び坑を穿(うが)ち、同十年(一六七〇)までの七ヵ年間に、再び一万四千両を産した。

 明治以後はほとんど金の産出は絶え、その後は石膏鉱山として稼働していたが、その石膏も戦後は良質の輸入石膏に押されて不振となり、閉山を余儀なくされた。


鉱山盛業時の石ヶ森石