明治八年、上雨屋・下雨屋・宮内・石村の四か村が合併し、雨屋村を形成した。明治二十二年の町村制施行の際には、上三寄など五か村と合併して大戸村を形成してからは同村の大字名。昭和三十年、若松市ほか六か村と合併してからは大戸町を冠称し、会津若松市の大字名となった。
この村の地名由来は、昔、会津盆地が〝霧が窪〟と呼ばれ、一年中霖雨晴れやらず、五穀は実らず、悪病がはびこり、人民は苦しみ悩んでいた。これをお聞きなった弘法大師は、雲間の晴れるのを祈り、天に向って二本の白羽の矢を射られた。そしてその矢の落ちたところを、それぞれ〝上天矢(かみあまや)〟〝下天矢(しもあまや)〟と名づけ、それ以来霖雨(ながあめ)は晴れたという。
雨屋からは石鏃が多く出土する。昔は太古に石器時代のあったことなど知り得るべくもなかったから、畑などから出土する石鏃をみて、天界に戦争があり、それが地上に落ちてきたものだと考えた。これを〝石噐天工説〟というが、雨屋の地名伝説も、この石鏃からうまれた伝説のようである。
この「天矢」はやがて「天屋」に転訛したが、天屋は河沼郡下にも同名の村があり、寛文中に今の「雨屋」に改められた。