湊村名の由来は、昔、慧日寺の希望により篠山(ささやま)の田中坊(でんちゅうぼう)が、猪苗代湖畔に湊を開いたことに起因するという。
篠山田中坊の祖は、中国梁の国から漂流して越後の浜に流れ着き、阿賀野川をさかのぼって高寺文化を開いた青岩和尚と同行、青岩は今の山都の附近で上陸したが、田中坊の祖は同伴していた白鹿に拒まれて上陸することができず、そのまま上流に遡ってたどりついたのが今の猪苗代湖であった。そこで先祖は、「嗚呼天鏡の湖哉!」と感嘆して篠山に庵を結んだという。そして何代かがたち、高寺仏教が慧日寺の勢力に亡ぼされた時、田中坊は命運を察して僧籍を慧日寺に返上し還俗したが、やがて寺命にしたがって篠山に湊を開いたのだという。
明治二十二年、共和・赤井・静潟・平潟・原の五か村が合併したときより村名となり、旧五か村はそれぞれ大字となり、村役場を大字共和に置いた。合併時の戸数は四六一戸、人口三、三一三人。大正九年における世帯数は五四二世帯、人口三、六三九人。昭和二十二年には世帯数六九二世帯、人口四、六六九人であった。
昭和三十年一月一日、若松市ほか六か村と合併してからは会津若松市湊町となり、各大字はそのまま存置された。