・大町通

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 甲賀町通りの西に並び、南は南町口郭門より、北は五之丁で少し西に折れ、大町口郭門に至る間の通りである。長さは各通りのなかで最長の、十一町四十三間(約一二七八メートル)余、幅八間(約一四・五メートル)。

 この通りに属する士邸は二軒であったが、甲賀町通りと同様、大町通りは郭内の大通りであるため、この通りに向って門を開く士邸も多かった。

 この通りは葦名氏の時代から、黒川城下の中心をなして大町と呼ばれていたが、文祿の町割りによって郭外に移され、旧来の大町は大町通りと呼ばれるようになった。

 この通りの西出丸の南には、寛文年間(一六六一-七三)まで浄光寺があった。その頃諸郷村十八組より上納される年貢米は、東照宮の後や、三之丸の沢田九右衛門屋敷内などに分散して蔵されていたが、火の用心にも悪く、浄光寺庫裡も古くなっていることゆえ、これを南花畑に移し、寛文六年(一六六六)六月十五日、その跡地に米蔵が成就し、南町口郭門の外濠に架かる橋は、この米蔵に近いところから十八蔵橋と呼ばれるようになった。

 それから約百年後、西出丸濠の西向いには藩校日新館が造営された。

 西出丸濠の北、今の若松女子高校の敷地にあたる一画には、作事場といって、御用人所や割場が置かれていた。

 割場内には火見櫓が設けられ、天寧寺町口・小田垣口・南町口・河原町口のそれぞれの郭門にも常に半鐘を懸けて置き、合図はすぐさま継承されるしくみになっていた。

 本二之丁の東南角には、会所が置かれていた。『家世実紀』寛文十一年(一六七一)の条によると、四月四日、割場の内にある会所を、本二之丁大町通り角に移すよう仰出されたとある。つまり、それまでの会所は割場内におかれ、この年に本二之丁に移されたものだが、この会所内には吟味所、勘定所をはじめ、廻米所、元締役所、郡役所、山役所、町役所、公事所などの諸役所があった。

 維新後の明治二年六月十五日、民政局が廃止され、若松県が設置されることになった。当初の仮庁舎には大町の融通寺が当てられたが、八月二十七日、県庁舎は旧城跡本丸内に移され、明治六年十二月、旧会所跡に新庁舎の落成をみ、若松県庁はここに移された。しかし、明治九年の三県合併により、若松県は姿を消し、跡地は一時、私塾になっていたこともある。


会所の図『嘉永・安政年間記憶覚書』

 大町通りの南端、東側には獄屋があった。婦女の罪軽い者を一室に幽しておき、一定の作業を与え、刑期を完えた者は赦し、過を悔い、行ないを改める者は期を待たずして赦免する定めであった。

 獄舎の近くには大町口郭門があり、その外は町方の中心街である大町につながっていた。

 今この通りの南端東側は城南町、西側は米代二丁目、中央部東側は追手町、西側は南が米代一丁目、北が山鹿町、北部東側は東栄町、西側は西栄町、北端は中町になっている。

(小島)