米代一之丁の南に並ぶ道で、現在の若松商業高校の前通りがそれである。
東は大町通りから、西は融通寺町通りにいたる六町五十八間(約七五六メートル)余、幅七間(約一三メートル)ほどの道で、文化期においてこの丁に属する家数は三十五軒ほどであった。
『家世実紀』によると、日新館が造営される以前の延宝三年(一六七五)四月二日未之上刻、今の午前一時頃。この丁の山本十郎兵衛屋敷から火を出し、士邸・民家・寺院等百四十九軒が焼失するという大火があった。
この日、火は折りからの東風にあおられ、米代二之丁で四軒のほか、材木蔵などを焼き、火はさらに外濠の土手を越え、河原橋前で十四軒、河原町で七十五軒、新町士屋敷十五軒、材木町十八軒、片原町二十軒、大法寺、正蓮寺などを焼失したという。
また享保六年(一七二一)三月二十四日にも、当丁に住む御供番望月六右衛門宅よりタバコの火の不始末で出火した記事が見えている。寛文七年(一六六七)二月十日の記事には、公儀より、タバコを本田畑に作ることを停止された旨の記事があるが、貞享二年(一六八五)の『町風俗習』に書き上げられた大町組の家業売買の品のなかにはたばこ屋が出現し、これが元祿八年(一六九五)になると、御城中でタバコを喫煙することを許す旨仰出られた記事が見えてくる。ということは、もうこの頃になると、武士階級の中でのタバコ喫煙も、かなり一般化していたということなのであろう。
今日では、タバコの火の不始末が火災原因の第一位にあるようだが、この望月六右衛門宅よりの出火は記録で見る限り、タバコの不始末による火災第一号のようである。
現在、この丁の東部三分ノ二は米代二丁目、西部三分ノ一は湯川町になっており、会津短期大学は、昭和二十六年、この丁の南側にある若松商業高校の、校舎の一部を仮校舎として開設されている。