米代三之丁の南に並び、長さ四町三十六間(約五〇二メートル)余、幅二間(約四メートル)ほどの小路であったが、その西部は外濠の土手に沿いながらやや北に迂回し、諏方通り花畑口郭門にいたる道で、文化期における家数は二十二軒であった。
現在の米代バスセンター南側にある小路がそれで、その以西は会津中央自動車学校の裏、県営住宅米代団地の北側、ならびに市営住宅米代団地の南側に、僅かに昔の道筋を追うことができる。
米代バスセンターの南側を入り、南町橋の袂より北西に走る道路と交叉する手前の北側あたりに、旧会津藩士山本覚馬の屋敷があった。
山本覚馬の遠祖は、甲州武田の軍学者山本勘助で、山本家は代々兵学をもって会津藩に仕えた家柄であった。父の権八は藩の銃術師範をつとめ、みずからも発着銃を発明するほどの人で、維新後は明治新政府に起用されて京都の施政をまかされ、日本で最初の小学校(明治二年創立の柳池小学校)、同じく最初の化学研究所(同三年創立の舎密局)を建て、日本で最初の大博覧会(同四年の京都勧業大博覧会)を開催したのも、みな覚馬の仕事であったという。同十二年、府県会の創設にあたっては上京区より選ばれて府会議員となり、初代議長をつとめている。
現在の町名では米代二丁目、その西端は湯川町。
(小島)